2010/06/21

三重・奈良・大阪のお雑煮で気になったところ 第2回

ちょっと、堅苦しい話になってしまいました・・・(いつもか!?)。

3.奈良県五條市は、紀州(和歌山)の文化圏?



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第1回でも触れましたが、奈良県独特のお雑煮は、「きな粉雑煮」で、丸餅を焼く人が多いです。奈良盆地南部の橿原市や、桜井市、明日香村では、「きな粉」の他に、「あんこ」もつけたりすると言う人も少なからずいました。

しかし、芦原峠の下を突っ切る芦原トンネルを抜けて吉野地方に入ると、ちょっと「お雑煮」が変わります。きな粉をつける人が、半分以下に減ったのです。
それから東に向かい、市境(右上にある薄紫の線より左が、五條市。)を越え五條市に入ると、さらに、また「お雑煮」が変わりました。
きな粉をつける人がほとんどいないだけではなく、お餅を焼かないで煮る人が多くなったのです。
それまで奈良県で聞いたお雑煮は、きな粉や具に関係なく、お餅を焼いている人が多かったので、焼かない人が多いのは驚きです。五條市で泊めていただいた2軒の御宅も、きな粉をつけず、お餅を焼いていませんでした。

出会った地元の人にその疑問をぶつけたりしていると、2つの答え(仮説)が浮かび上がってきました。

五條の天領まず、1つめのキーワードは、「天領」です。
五條は江戸時代、幕府直轄の天領地でした。
お雑煮の成り立ちに藩の影響は無視できません。
江戸時代、庶民にまでお雑煮の習慣が広まったのは、「参勤交代でお雑煮文化を知った大名が、お雑煮を自国に広めた。」という説があるからです。
五條は天領地のため、奈良の他の地域で主流の「きな粉雑煮」が伝わらなかったと考えることができます。

五條市:吉野川を望む2つ目のキーワードは、「川の流通力」です。
明治になるまで、流通の主役は、舟運でした。五條市を流れる吉野川は、隣の和歌山県に入ると、紀ノ川と呼び名を変えます。この吉野川(紀ノ川)を通じて、吉野杉などの物資や、情報が行き交っていました。
吉野川沿いは、下流の大都市である和歌山の文化・風習の影響を受けていると考えても不思議はありません(文献等によると、和歌山県の雑煮は、お餅を煮るそうです。)。

雑煮以外でも、五條市は和歌山県の影響が強く、食文化や風習が、紀州(和歌山)に似ていることが多いそうです。
五條も和歌山も、餅米とうるち米を混ぜて作るお餅を「ぼろ餅」と呼び、結婚等のお祝い事の時などに「餅まき」をする風習も共通しているということです。

東吉野村のニホンオオカミ像吉野地方で、きな粉をつける人が比較的少なくなるのも、吉野川の舟運の影響を受けているような気がします。
吉野川から離れ、山の中に続く東吉野村では、ほとんどの人が「きなこ」をつけていました。

吉野建て ー吉野地方独特の建築様式ー

前回の旅では、吉野地方で、たくさんの人に、ご飯をごちそうになったり、泊めていただいたりしました。
吉野地方は、大海人皇子、源義経、後醍醐天皇など、古来から敗者をかくまった地として有名です。僕みたいな「世捨て人」を暖かく包んでくれる空気を感じ、とても大好きな場所の1つになりました。

山の峰に沿って続く吉野の町並みその吉野地方には、「吉野建て」という独特な建築様式があります。
入口である1階から階段を下りた階に、居間や、台所、お風呂などの生活空間があるのです。平地が少ない山の中で、傾斜を利用できるように発達した建築様式だそうです。

吉野山にある金峯山寺の近くで泊めていただいた御宅は、まさに典型的な「吉野建て」でした。また、五條市や大淀町の家にも、下の階にお風呂があったりする「吉野建て」形式の家がありました。



4.三重県名張市も「きなこ雑煮」



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きな粉雑煮国道165号線を通って、奈良県の宇陀市から三重県の名張市に抜けました。
三重県に入る手前の集落で「きな粉雑煮」のことを確かめてから、県境(左下の薄紫の線)を越えました。

家並みが途切れ、森の中を走り、しばらくすると、名張市の集落に到着。
ちょうど家の外にいた方に早速尋ねました。きな粉をつけるそうです。
「きな粉雑煮」は、奈良県独特のお雑煮だと考えていたので、おやっ!?と思い、近くの家を数軒訪問して確かめましたが、ほとんど「きな粉」をつけていました。名張の市街に入っても、きな粉をつける人だらけです。どうやら、名張市も「きな粉雑煮」の地域のようです。

理由のひとつとして、名張市は東大寺の荘園だったため、奈良の文化が流入したのではないかという説を挙げている人がいました。
荘園だったのは、江戸時代よりはるか昔の話ですが、現在でも、東大寺のお水取りで使う木材は、この地方のものが使われているということですし、確かに関係があるかもしません。


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江戸時代、名張市は、伊賀市と同じ「伊賀国」でした(藩は、別だったようです。)。
以前、伊賀市で聞いたときは、「きな粉」をつけるというのはほとんど聞かなかったので、どこまで「きな粉」をつけるのか興味を持った僕は、2度通過した伊賀市に、再々度、遠征することにしました。

名張市の西、名張市と伊賀市を区切る小高い丘の上の市境(真ん中下にある薄紫の線)を越えて伊賀市に入ると、「きな粉」をつけなくなり、押丸餅のことを「花びら(※)」と呼んでいました。
結局、伊賀市内全域では、約3割ぐらいの人が「きな粉」をつけていました。微妙ですが、「きな粉雑煮」は、名張と伊賀上野の間にも薄く広がっているようです。

※「花びら」は伊賀市特有の呼び方。「花びら」の呼称を使った人で「きな粉」をつけている人はいなかった。



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名張川に沿って延びる太郎生マップ上の線で囲った右側(東側)は三重県津市美杉町太郎生(たろう)で、北は名張市、西と南は奈良県になります。
この境界を見るとわかるように、ここは、県境・市境が、複雑に入り組んでいます。

太郎生に入ると、「きなこ雑煮」を作っている方は、ほぼいなくなりました(南端にある奈良の県境直前の家のみ)。
ここ太郎生は、数年前に分村合併問題がありました。美杉村に属していましたが、名張川に沿って集落が延びる太郎生は、名張との結びつきが強いため、名張市との合併が模索されたのです。

しかし、最終的に、名張市とではなく津市と合併し、津市美杉町に残ることになりました。

なぜ太郎生(美杉村)の住民は、津市美杉町に残る選択をしたのか?

それはここ太郎生が江戸時代、伊勢藩に所属していたからです(このことは、malmondoさんのブログ参照。)
僕のお雑煮調査から、太郎生には、太郎生の北・西・南に存在する「きな粉雑煮」が伝わっていない可能性があります(調査人数があまりにも少なすぎますが・・・。)。これは、伊勢藩に属していたためだからではないかと空想は膨らみます。

5.お雑煮+大福茶?



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先日、友人とお雑煮のことを話していたとき、友人が僕のマップ上にある2つの「大福」に気づきました。

左側のマップの中心にあるのは、伊賀市の長野峠近くで聞いたお雑煮で、焼餅と梅干しを入れたお椀に“大福茶”を注ぐそうです(元旦のみ)。

雑煮を食べ終わったお椀に、梅干と砂糖と番茶を注ぐ。※「大福」と呼ぶ。右側のマップの中心にあるのは、去年のお正月に名張市で僕がいただいたお雑煮です。旅の途中知り合った方の家に、去年の年末年始、泊めさせていただきました。しきたりを厳格に伝承している家で、補足に書いてあるように、お雑煮(きな粉雑煮)を食べ終わった後のお椀に、梅干しと砂糖を入れ、番茶を注ぎます。
その家では、それを「大福」と呼んでいます。

一方、京都を中心とした関西圏には、正月に飲む縁起茶として「大福茶」というお茶が伝わっています。
梅干しを入れることといい、この2つの雑煮と、「大福茶」は関係がありそうです。

ここ伊賀地方は三重県ですが、お雑煮に入れる餅が丸餅だったり、関西ローカル局の電波の方が受信しやすかったり、東海地方より近畿地方と関係が深いところです。京都の文化である「大福茶」が、この地で変容し、お雑煮と融合したと十分に考えられると思います。日本の文化の中心であった京都の文化が、山奥にまで広がっていた一例としても興味があります。

第3回に続く。。
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2010/06/18

三重・奈良・大阪のお雑煮で気になったところ 第1回

前回のお雑煮調査で、僕が気になったポイントについて書きます。
細かく見れば、気になる点は山のようにあるのですが、それを一つ一つ書いていると出発できなさそうなので(汗)、特に気になったポイントを、今回2点、次回3点、次々回3点の合計8点、紹介します。
「お雑煮マップ」の該当箇所をクローズアップして載せ、その下に解説文を書いています。

1.丸餅と角餅の境

こちらの日本列島雑煮文化圏図を見ると、布引山地に沿って三重県を分断するように、丸餅と角餅の境界が走っています。
三重県内に走るこの境界を、3ヶ所にわたって通り抜けました。



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最初に横断したのは、伊賀市から亀山市に行くときです。

お雑煮のことを聞き始めて2日目にここを通りました。この時はまだ、お雑煮調査に熱をあげていないので、多くの人に聞いていません。

大和街道の案内板伊賀市と亀山市の間を通る大和街道(現在の国道25号線)を通っていきました。布引山地を横断しますが、標高はそれほど高くありません。紫の線は、標高が最も高い伊賀市と亀山市の市境に引いたものです。

亀山市に入る手前の家の夫婦に尋ねたときは丸餅でした。
森と採石工場に挟まれて延びる、荒れた道を通り抜け、山と森に囲まれて細長く広がる亀山市の加太の集落に到着。家の庭の手入れをしていたおばあさんに尋ねると、角餅に変わっていました。

おばあさんの短歌他そのおばあさんに誘われ、お茶をいただきながら、このおばあさんが詠んだ和歌などを見せてもらったり、戦争の話など、いろいろな話をしました。
また彼女は、郷土の料理についても造詣が深く、彼女も関わった「三重 味の風土記」という本を貸してくれました。この本にはなんと、「雑煮」の項目があり、三重県内の各地域のお雑煮について説明が載っています。三重県は、東西の文化がぶつかる境界に位置しているため、地域ごとに様々なお雑煮が伝わっています。
「こんな人にいきなり出会えるなんて、これは運命なのか!?」と、お雑煮にハマり込むきっかけになりました。


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海岸線を辿って紀伊半島をぐるっと回る予定でしたが、大阪市立自然史博物館で開催されていた「ようこそ恐竜ラボへ!」展を鑑賞するために、トンボ返りすればいいやと、津市から一路大阪へ行くことに(実は、僕、恐竜大好き人間なんです。)。

その時、津市から長野峠を越えて伊賀市に行くルートを通りました。
中央の紫の線がひいてあるところが、長野峠です。東側は角餅、西側は丸餅ときれいに分かれました。

東側から西側に峠を越え、初めての集落に到着すると、本当に餅の形が丸餅に変わるのか確かめるため、この旅初めて、「すいませーん。」と家の中にいる人に呼びかけました。
その時顔を出してくれたおばあさんは、こころよくお雑煮のことを教えてくれました。
期待通りの“丸餅”。そのときの感激は、今でも思い出すことができます。


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大阪に向けて出発してから3ヶ月後、やっと津市に戻ってきました。

この時通った道は、雲出川に沿って延びる、なだらかな道です。
川に沿って途切れることなく人々が住んでいるからか、角餅と丸餅の境界はあいまいです。

奥津宿の町屋建築奈良側から坂道を下り、丸餅から角餅へ、がっつりと変わったのが、伊勢本街道の奥津宿からです(お雑煮番号655~)。
奥津では、まだ丸餅の人もいましたが、奥津からすぐ東の飼坂峠を越えて上多気に入ると、完全に角餅に変わっていました(お雑煮番号670~677)。

雲出川沿いを走る名松線また飼坂峠を越えて奥津に戻り、雲出川に沿って津に向かいました。雲出川沿いは、しばらく角餅と丸餅が混在します。八知の集落(お雑煮番号680~700)を過ぎるとほとんど角餅に変わるので、八知の集落がちょうど境目になるような気がしますが、スパッとした区切れ目はないのではないかと思います。

2.大阪(河内国)と奈良(大和国)の境

行きと帰りの2回、異なるルートを通り抜けました。


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大阪と奈良は、山地(生駒山地・金剛山地)によって分断されています。
その間を流れる大和川に沿って延びる、国道25号線を通って、奈良の王寺から大阪の柏原に入りました。

奈良県は、味噌汁に入れた餅を取り出して、きな粉につけて食べる「きな粉雑煮」の人が多くいます。僕の調査では、7割ぐらいの人が、きな粉をつけていました(柳生など、山里の人たちは、より多くの人がきなこをつけています。)。

奈良と大阪のお雑煮の違いとして、きな粉の他に、餅を焼くか煮るかがあります。奈良の人たちは、きな粉をつけるつけないに関係なく、多くの人が餅を焼いていましたが、大阪の人は煮る人が多いです(ほとんどの人が「煮る」ではなく「炊く」と言う。)。

大阪側に入ると、きな粉をつける人は皆無になりましたが(奈良出身者は除く)、煮・焼に関しては、くっきりと分かれていません。王寺・柏原は、大阪のベッドダウンとして有名なので、色々な地方の人が集まってきているのかもしれません。大阪側に、小豆汁(ぜんざい)をお雑煮として食べるという人が2人いたのが、ちょっと気になっています。


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大阪の太子町から、金剛山地を横断する竹内峠を越えて、奈良の葛城市へ行きました。

大葛城市に入った集落に建つ、茅葺き屋根の大和棟太子町では、僕が聞いた全ての人が、丸餅・煮・白みそのお雑煮でした。竹内峠を越えて、奈良側に行くと、焼餅一色になり、きな粉をつける人もちらほら現れました。

丸餅と角餅の境となった長野峠もそうですが、峠等の自然の障害があると、文化の違いも鮮明になります。

To be continued...
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2010/06/10

お雑煮マップ

今回は、「お雑煮マップ」についてです。

お雑煮のアイコンは、
  • 餅の形
  • 餅の状態(焼or煮)
  • 味付け
で分類しています。ちょうど餅の形が変わる境界近く(三重県伊賀市)からお雑煮調査を始めたのが、お雑煮にのめり込むきっかけの1つになりました。

具に関しても、地域によって違いがあります。具はアイコンで区別することが難しいので、言葉での説明だけにしています。特に気になった違いは、ブログに書いていきたいと思っています。ダシについてはこちらから尋ねることはないのですが、話の中で教えていただいた時は、記入しています。

また尋ねた人の年齢(世代)も記録しています。
  • 世代によって雑煮が違うのか?
  • 世代における雑煮の移り変わりがあるのか?
を知りたいと思ったからです。

Fは女性で、Mは男性。独断で、70歳、55歳、40歳、20歳で世代を分けています。尋ねた人の年齢に関しては、僕の直感で判断しているので、違うこともあると思います。

どちらかと言えば、女の人にお雑煮のことを尋ねています。女の人の方が、家の外で庭の手入れや家事仕事などをしていたり、スーパーなどのお店にいたり、井戸端会議をしていることが多いからです。また、実際にお雑煮を作っていることが多い女の人の方が、詳しく覚えていることもあります。

また、特にお年寄りの方に尋ねています。
お雑煮の地域の違いを知りたいと思っているので、勢い、お年寄りの方に昔ながらのお雑煮について尋ねてしまうというのもありますが、若い人に尋ねるとナンパみたいになってしまうし(思い込み?)、やっぱり性格上(?)気後れしてしまうのもあって、若くてかわいい人に声を掛けづらいというのもあります(言い訳がましい・・・。)。

雑煮の違いは、年月が経てば経つほど失われていきます。
雑煮の地域性が失われていく理由として、
  1. 食の多様化
  2. 交通網の整備
  3. 家意識の崩壊
  4. 各地域に住む人々が、生き抜くために一致団結して協力する必要性の消失
  5. 雑煮における「神人共食」意識の廃れ
などがパッと思いつきます。他にもいろいろな理由が絡み合っていると思います。

各家庭のお雑煮の基準が「おいしいかどうか」になり、インターネットで検索すれば、クックパッドのお雑煮のような、“おいしい”お雑煮のレシピが山のように出てくる現代に、雑煮の統一を保つことは、ほとんど不可能だと思っています。

にもかかわらず、聞いて回っていると、現在でも地域のお雑煮の違いを感じることは多いです。
峠や川などの自然の障害を越えると、それまでとは趣の異なるお雑煮が飛び出し、「違う国に来た!」と実感します。また、お雑煮は江戸時代に庶民まで広まったと考えられるので、江戸時代の藩の区分も無視できません。
現在、地域に伝わる特定のお雑煮一色になることはほとんどありませんが、何人かの人に尋ねると、その地域に伝わるお雑煮の数が多くなるのがわかります。「この地域の雑煮はこれだ!」と断定することはできませんが、「この地域には、このような雑煮が多い。」ということはできます。

最後に、雑煮を聞きながら僕が感じた、超アバウトな、なんちゃって世代観について少し書きます。

F1・M1:70歳以上
戦前世代。この調査の主役。地域の雑煮の第一の伝承者。柳田国男が大正時代に嘆いた「失われゆく地域性」は、いまだ、この世代に健在している。自家菜園の野菜を融通しあったり、お味噌を作ったり、“全てが乏しかった時代”の習慣を変わらず続けている(特に山の中)。餅へのこだわりは強く、餅は大切な思い出の1ページを飾っていたりする。話をしていると、いつの間にか戦争のころの話に。脳裏に刻まれ、忘れることができない悲しい記憶。その熱い物語を聞いてると、時の経つのを忘れ、共に涙することも・・・。
F2・M2:55~70歳
戦後世代。地域性は薄れるが地域への愛着の強さは感じる。その地元の出身じゃない人が多くなり始める。はじめ、「私よりもっと年寄りが知ってる。」と言われるのに驚いた。この世代はまだまだ若い。
F3・M3:40~55歳
20世紀少年」世代。お雑煮は変わりなく食べているが、「元旦はみそ、2日はしょうゆ」など、色々なお雑煮を楽しんだり、「昔は餅を煮ていたが、今は焼いている。」など、地域固有のお雑煮から離れ、独自のお雑煮を作る人が多くなり始める。
F4・M4:20歳(社会人)~39歳
僕を含む若者世代。雑煮へのこだわりは、正直うすい。小さなころから、世界中の食を楽しめ、多様な価値観にさらされていた。お餅やお雑煮は「好きじゃない。」「食べない。」と言う人もちらほら。雑煮への思いを繋ぎ止めておくのは難しい。
F5・M5:~20歳(学生)
次代を担う世代。彼・彼女らの時代のお雑煮は・・。

次回は、お雑煮の違いについて地域を限定して具体的に説明します。

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2010/06/01

「お雑煮をめぐる冒険」をするわけは。

ここ1週間、お雑煮のことが頭を離れない。
考え始めると止まらない。あーでもない、こーでもないとグルグル頭の中を駆け巡る。
と、そんな毎日だったら自分に納得できるのだが、
ずーっと考えていると、結局、耐えきれなくなり、気づくと他事を考えている。ダークエネルギーは宇宙の未来を解き明かすのか、Wカップで日本は勝つことができるのかどうか・・・。そして今も、「ドン・キホーテ」を読み、僕の愛しき“姫君”について思いを馳せていた。。
あー、いかん!マジでいかん!!世の中には誘惑が多すぎる。
持続せよ、持続せよ。1つのことを貫くのは、本当に難しい。

仕切り直して、「お雑煮」についてです。

多くの日本人が正月に食べているであろうお雑煮。
お雑煮に関する本はたくさん出版され、ネット上にもいくつもの説明が載っています。

◆お雑煮についての代表的な説明
  • 雑煮(Wikipedia)
    「お雑煮」について初めて書かれた文献「鈴鹿家記」(1364年1月2日に雑煮の記述)。
    この「鈴鹿家記」は、鰻の蒲焼きや、刺身、十六島のりなども初出のスゴイ文献らしい。書き残すことで、後生に伝えることができる。そういえばガリレオ・ガリレイも「書きとどめよ。議論したことは風の中に吹き飛ばしてはいけない。」と言ってたなあ。
    お雑煮を追う者として、この「鈴鹿家記」を一度見てみたいと思い、どこにあるのか京都の吉田神社に電話をかけてみた。社務所の方は、「研究者や大学に貸し出して、今、どこにあるか知らない。」と言っていた。
    いったいどこにあるのだろうか?
  • 雑煮(Yahoo!百科事典)
    名もなき人々に神は宿る。僕が雑煮について尋ねたときも、雑煮を「お供え」すると話していた人は多かった。
  • 個性が光る!お雑煮図鑑 年末年始お参りスポット(るるぶ.com)
    ここに載っている雑煮は全て実際に聞いてみたい。
お雑煮の各地の違いについて、日本地図を使用して説明しているWebサイトもあります。

また、各地の郷土資料には、その土地のお雑煮のことがよく書いてあります。雑煮を調べ始めてから、新しい土地に入ったときは、まず図書館に飛び込み、郷土史・民族誌などをチェックして、その土地のお雑煮について調べていました。

このように、お雑煮の地域分布も含め、今現在、お雑煮についての事柄は、ほとんど出尽くしているように思われます。この前も友人に、「もう分かっていることなら、聞く必要ないんじゃないの?」と素朴な疑問をぶつけられました。

では、なぜ僕はお雑煮のことを聞いて回っているのか。

それは、
  • 「お雑煮」の核心に迫ろう。
  • 誰も知らない新事実を発見しよう。
というのではなく、

お雑煮の違いを尋ねることで、日本の豊かな地域性を肌で感じることができ、そして、尋ねること自体が地元の人と話すきっかけになるからです。

この「お雑煮をめぐる冒険」は、独りよがりの高尚な趣味であり、酔狂な冒険であるかもしれません。でも、誤解を恐れずに言うならば、自分の理想を追い求め、風車に突撃したり、羊の群れに突っ込んだり、あえて苦しい戦いに挑む「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」のような冒険なんだ。と信じています。

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