2010/11/29

茅葺き屋根のおばあさん ~タイムスリップした一夜~

山中湖に来て2日目。山中湖を1周しながら、お雑煮のことを聞いて回っていました。

山中湖北東の平野集落をうろついていたとき、土の上に、はいつくばるようにして、畑を耕していたおばあさんを見かけたので、声をかけました。

おばあさんは、

「人間は、土と、水と、太陽がなければ生きられない。」

などと、説教し始めます。

おばあさんの説教に引き込まれるように、いつの間にか、僕は歩道の上に体操座りをして説教を聞いていました。

しばらくして、おばあさんは、

「今日はうちに泊まっていけばいい。」

と言いました。

天野家住宅僕はちょっと迷いましたが、

「そこの草葺きの家だ。」

と言われたときには、目を見開いて、興奮。
実は先ほど、お雑煮のことを聞こうとその家を訪れ、茅葺き好きの僕は、茅葺き屋根の家に感動していたのです。

暗くなった5時過ぎ、茅葺きの家を訪問します。

おばあさんは、割烹着を着て、もんぺをはき、頭に手ぬぐいを巻いています。

展示用ではない、現役の茅葺き屋根の家に初めて上がりました。
改修はしていますが、建てたのは170年前だそうです。最後に茅葺きしたのは約40年前で、おばあさん自身も手伝ったようです。
さすがに今は、天井がはってあり、台所やお風呂もあり、土間も玄関のようになっています。

掘りごたつに入り、お茶をいただきます。
お茶を入れてくれるシワだらけのおばあさんの手は、長年の農作業などで、太くたくましい立派な手です。
休憩していると、おじいさんが帰ってきました。
おじいさんとおばあさんの2人だけの会話は、方言が強くて、ちょっと聞き取れません(汗)。

話が終わると、

「今日は、長芋と卵を入れてそば粉を練っておいたから、打つべ。」

と言って、台所でそばを打ち始めました。

そばを打つおばあさん家庭でそばを打つのを見るのは、初めてです。

おばあさんは、のし板の上に麺玉をのせ、まず足で踏みつけ、そばの麺玉を叩きながら丸くし、打ち粉を勢いよくふりかけながら、のし棒で麺玉を徐々に伸ばしていきます。
もう体が覚えている感じで、のし棒を手足のように、いろいろな角度からコロコロ回します。長唄のような歌を歌いはじめました。麺玉が、丸く薄く広がっていきます。

今日もまた、ほうとう?うどんがいいなぁ。えっ!そば!!

「山梨県史 民俗編」の「一日 ー一日のケの生活ー」の項目に、「ある1日」の解説が載っています。

その「夕食」のところには、

普段の夕食の中心は、ホウトウ。来客があるときは、ウドンやヒヤムギ。もっとぜいたくなのは、蕎麦。

などと書いてあります。

山梨県の郷土料理であるホウトウは、野菜を比較的多く入れて煮込むので、うどんに比べ小麦の量が少なくてすむ(うどんの3分の1)経済的な食べ物です。
山梨県は、山に囲まれた、お米があまりとれない地域。特にここ山中湖は山梨県でも最も寒く、主食は、大麦、小麦、モロコシなどのコナモノでした。

ホウトウなどの郷土料理は、今では観光の目玉になっていますが、その土地土地の厳しい自然環境の中、地元で取れるものを使って、いかにおいしく日常的に食べられるか、先人が経験や知恵を絞ってあみ出したものだということが、よく分かります。

かつて、山梨県のお母さんは、毎夜毎夜、家族のために、のし板とのし棒をふるって、小麦粉を打っていました。

「風呂、へーらねぇか?」

と言われたので、先にお風呂に入り、久しぶりに(!?)体を洗います。

きれいに切られたそばお風呂から出てくると、きれいに切られたそばが、新聞紙の上に置いてあります。瑞々しくキラキラ光って、おいしそうです。



できあがったそば堀りごたつに入ると、ツヤツヤ光る、プルンプルンしたそばが、てんこ盛りで出てきました。
つゆは、いろいろな野菜が入る、さっぱりした醤油汁です。

「ナンバン、いれねぇべか?」

と言われ、最初、理解できませんでしたが、じきに、唐辛子のことだと気づきました。

おいしい!
そばは、しっかりコシがきき、弾力があります。
熟練者であるおばあさんの手打ちそばは、うまい。僕が食べたそばで一番の味です。
水でしめてあるので、麺は冷たいです。
ラーメンのつけ麺と同じく、つゆが覚める欠点がありますが、そんなことは百も承知のおばあさんは、何度も熱いつゆを入れてくれました。

「今日は、カモや、キジの肉がねぇから、ごちそうできねぇべ。」

と言ってましたが、十分なごちそうです。

食後、おばあさんと話をします。

おばあさんは、「厳しく、熱い人」です。
戦前の教えが今も 骨身にしみ込んでいます。
「尋常小学と高等科(今の小学校と中学校)しか出ていない。」と何度も言っていましたが、その時習ったことを、84歳になる今まで、全く忘れていないことに驚きです。

シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」の話。
因幡の白兎の話。
間宮林蔵の話。
などなど。

教育勅語を暗唱し、内容を説明してくれました。

僕が何も知らないため、

「今の学校は何を教えているんだ?」

と、嘆いていました。

僕は、

「今は修身の授業はないんですよ。。」

と、自分の不勉強を棚にあげて、意味不明なことをタジタジと言うだけです(汗)。

僕はこの時、教育のすごさを、身にしみて痛感しました。

このような教育を受けた人々が、日本の戦争を支えていたんだ。と実感したのと同時に、多くの人が衣食住に困らない、便利な今の日本社会は、おばあさんのような人たちが築いてきたんだ。と、深く考えさせられました。

僕は、

戦時中に若者だったら、果たして、特攻隊に志願したか?

と考えることがあります。

僕は、思い込んだら頑固に思い込むクセがあるので、戦前の教育を受けていたら、特攻隊に志願していたんじゃないか。と思ったりしますが、正直に言えば、「特攻隊に志願する人間であってほしい。」と密かに願っています。

果たして、僕はどういう人間なんだろうか。まだよく分かりません。

他にも、

職種に恥はない。
人生に今日の日は、今日しかない。
情けのある人間になれ。

などなど、まだまだ書ききれないほどの金言を述べていました。

特に、努力については、

努力に勝る秀才なし。
運勢は、「勢いを運ぶ」と書く。だから、運も自分自身の努力で引き寄せなければいけない。

などと、何度も言及していました。

これらの金言は、「言うは易し、行うは難し。」です。実践することは難しい。
しかし、おばあさんには、それらの言葉が骨の髄までしみ込んでいるようです。
おばあさんから、その日その日を精一杯生きる心構えとその実践について、教えていただきました。

なんて、火傷しそうな熱い話を聞いていると、もう12時。
いつも10時頃には寝ている僕は、さすがに眠いです。
梅子さんの「ねべーな。」の合図で、寝る準備に入ります。
家の奥の「オクンデイサ」(奥座敷)に僕のための布団を敷いてくれたので、挨拶をして居間を出ます。

2度と来ない「今日の日」が終わりました。

山中湖情報創造館で「山中湖周辺の民俗」という本を読んでいると、なんと天野梅子さん(茅葺き屋根のおばあさん)のそば打ちの写真が載っていました。
他にも、天野家住宅の間取り図や、写真、解説まで載っています。

やはり、天野さん夫婦は、山中湖の民俗における数少ない生き証人のようです。
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2010/11/26

富士山麓のお雑煮 第1回 ~みそ味のお雑煮~

富士山の東南麓などを源流とする「鮎沢川」は、神奈川県に入ると「酒匂川」と名前を変えます。

ちょうどその酒匂川が鮎沢川に変わる直前、「先祖代々、ここに住んでいる。」とおっしゃっていた方のお雑煮は、「みそ味」でした。
今回の旅で、地元出身の方に初めて聞いた、「みそ味のお雑煮」です。

酒匂川を渡り、静岡県小山町に入ると、みそ味のお雑煮が増えてきます。

前回の旅と合わせて考えると、みそ味のお雑煮には2つの理由が考えられます。

ひとつは、 歴史の古いお雑煮です。

前回の旅で尋ねた大阪や奈良など、近畿地方とその周辺は、みそ味のお雑煮を作る方が多いです。

お雑煮ができたころ(室町時代)の文化の中心は、「京都」でした。
そのころのお雑煮は、しょうゆの原型である「たれみそ」を使っていたそうです(P.104-105『祝いの食文化』)。
「たれみそ」は、みそから作る液体ですが、手間がかかるので、みそをそのまま使ったのが、京都のお雑煮になり、京都の文化圏である近畿周辺に「みそ味のお雑煮」が広まったと考えられます。

もうひとつは、山(田舎)のお雑煮です。

富士山麓や、前回聞いた三重県の伊勢湾方面の山側などには、みそ味のお雑煮を作る方が、広く分布しています。

おみそは、各家庭で代々、作られてきましたが、しょうゆは、購入するものでした。
江戸時代は、基本、自給自足で、村内や近くの村との物々交換で生活が成り立っていました。環境が厳しい山の中では、特にその傾向が強くなります。そのような地域では、しょうゆを手に入れるのは難しく、自然と自家製のみそを使ったお雑煮になってきます。
山中湖や河口湖周辺のお年寄りの方の中には、「昔はしょうゆなんてなかった。」とおっしゃる方が何人かいましたが、しょうゆが自由に手に入るようになったのは、ごく最近のことです。

このような「山(田舎)」がベースにあるみそ味は、どうしても「しょうゆ味」に流れていく傾向があります。
東日本ではしょうゆ味のお雑煮が圧倒的に多いうえ、メディアでも、しょうゆ味のお雑煮の情報が頻繁に流されています。
このような影響で、「昔はみそだったけど、今はしょうゆ。」という人が多くなっているように思います。
また結婚相手がしょうゆ味だと、しょうゆ味になる傾向も多いように感じます。

反対に、しょうゆ→みそのパターンは、ものすごく少なく、実際に僕が聞いた、関東平野や足柄平野の地元出身の方の中に、「みそ味のお雑煮」の方はいませんでした。

■しょうゆ味のお雑煮は、江戸のお雑煮。

しょうゆの製造・流通が確立されたのは、江戸時代に入ってからです。
雑煮の文化自体は京都が発祥ですが、しょうゆ味のお雑煮は、しょうゆが比較的手軽に手に入るようになった、江戸の町から始まったと考えることができます。

江戸時代中期、日本の文化の中心が、徐々に江戸に移行していきます。
参勤交代で江戸に来ていた各国の大名が、この「正月のしょうゆ味の雑煮文化」を自国に持ち帰って、全国的にお雑煮が広まったと考えることができます。



より大きな地図で お雑煮マップ 2(関東甲信) を表示

正月にお雑煮を食べ始めたのは、津島の人々!?

僕の故郷の愛知県津島市の図書館(僕が通っていた中学・高校の隣にあります。)が、「正月の雑煮発祥地は津島」というトンデモ説(!?)を唱えていました(地元で伝わる話?)。

津島市立図書館 図書館だより 2008年10~12月版
※12/26に、その説が載っています。

正月にお雑煮を食べることについての、最も古い文献のひとつである「言継郷記」によると、天文三年(1534)正月元旦に雑煮の記載があります(P.97『祝いの食文化』)。

しかし、「浪合記」という書物には、津島に来ていた良王に、正月元旦、雑煮を出したという記述があります。

同八年正月元旦雑煮を良王に上る。
「国立国会図書館 近代デジタルライブラリー」より抜粋。左ページの真ん中あたり。

この「同八年」とは永享八年。西暦では、1436年。

「言継郷記」の記述から100年も古い!
なるほど・・。まさに、津島が正月の雑煮発祥の地だ!

と言いたいのですが、この「浪合記」は江戸時代初期に書かれた(と思われる)書物で、今でいう歴史小説のようなもの。

真実は藪の中・・。まぁ、歴史はロマンなので・・・(汗)。
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2010/11/16

寒さにやられる(涙) ~紅葉の山中湖~

御殿場に着いて2日目(10月26日)から、テントを張り始めました。

それまでは最低気温が10度以上で、暑くもなく寒くもなく、とても快適でしたが、御殿場は標高約500m。最低気温が10度以下になり、テントなしでは寒くなりました。

テントの中と外は、大体3度ぐらい違います。
テントは風も遮れるので、体感温度はもっと違います。御殿場では、テントを張って持っている服を着こめば、普通に寝ることができました。

御殿場でお雑煮を聞き回ったり、御殿場プレミアム・アウトレットに行ったりして、台風をやり過ごした後、その装備のまま、11月1日、御殿場を出発。

富士山が顔を出す御殿場から籠坂峠に向かう途中、御殿場に着いてやっと、富士山が顔を出しました。
須走浅間神社でお参りして、籠坂峠へ。

籠坂峠にある加古坂神社にお参りに行くと、落ち葉がじゅうたんのように敷き詰められた木立の中に、自衛隊の方たちが数十人いました。
皆、迷彩服を着て顔を黒く塗っています。自動小銃が足下に置いてあり、すごい生々しい。迷彩服があんなに木立の中にとけ込むのには、ビックリしました。
須走には、陸上自衛隊富士学校があるので、訓練をしていたのだと思います。

そして、暗くなるちょっと前に、山中湖に到着。

夕焼けの渚・紅葉祭り山中湖は紅葉真っ盛り。

旭日丘公園では、「夕焼けの渚・紅葉祭り」が開催されていたので、会場内の散策路歩きながら、紅葉を愛でます。

色づいたカエデまだ緑のカエデ。黄色く色づき始めたカエデ。見事に真紅に染まったカエデ。軽快なコントラストで、散策路を彩ります。

下から緑、黄、赤と鮮やかにグラデーションしていくカエデには、言葉が出ません。

旭日丘公園の展望台から見た富士

次の日の朝、太陽の日差しを浴びて、カエデたちが鮮やかに浮かび上がります。湖の先では、富士山の緩やかななで肩が、青空の中くっきりと映えていました。

到着した翌日から、連日、深夜0度前後まで冷え込みます。
標高約1000mの山中湖は、20年ぐらい前まで湖全面が凍結していたほど、山梨県でも最も寒いところです。
僕は真冬用の装備をしてきていません。完全な装備不足・・・。
深夜、寒くて何度も起き、3時以降まともに寝ることができません。
特に足が寒い、というか、痛いです。
靴下を4重に履いても、やっぱり、痛い・・。上半身は、持っている7枚の服を総動員して、何とか耐えられるかという感じです。

このままじゃ病気になってしまうと、ヤフオクで冬用の寝袋を落札しました。

届いた冬用寝袋は、今までの寝袋の3倍超の大きさがありますが、持っている服を着込み、靴下を2重にすれば氷点下でもそれほど寒くなく寝ることができました。

これで、一安心。
先日、-4度まで下がりましたが、大丈夫でした。
これからやってくる冬もこれで何とか乗り切ることができそうです。

「はだしのまさとマン」(小学生の頃のあだ名)としては、ちょっとつらいですが、3日前から、昼間も裸足ではなく、靴下を履いています。。

マリモ通りの紅葉

1週間ちょい山中湖にいる間、日に日に、木立や山が、黄色や赤に移り変わっていきました。
季節の変わり目を五感で感じる、素晴らしい体験をすることができました。

■「新しい公共」の実践例 山中湖情報創造館

情報創造館山中湖には、山中湖情報創造館という図書館があります。

夜9時まで開いていて、休館は月末のみ。電源や無線LANが使い放題です。
大正時代の建物をイメージした木造建築で、ぬくもりが感じられる、居心地のいい建物です。
山中湖にいるときは、毎日のように、ここを利用していました。

この情報創造館は、運営、管理を民間に委託した全国初の「公設民営図書館」です。
最近、熱いところでは熱い「新しい公共」の実践例のひとつ。

こんなに至れり尽くせりのサービスを、住民が少ない村でしていいのか??(僕の実感では実際に利用している人も少ない。)

と疑問に思ったので、この館の館長である丸山高弘さんと少し話をしました。

丸山さんは、「公務員より柔軟に図書館員を配置をしたり、効率的に運営することで、村が運営するよりもお金がかからない。」というようなことを話していました。
公共施設の運営を民間に任せる事例は、最近ドンドン増え、丸山さんたちのようなNPO等が、プレゼンをして入札を競っているそうです。
Twitterなどで書いていますが、図書館が出版機能や編集機能を持ってもいいんじゃないかという意見や、図書館発の電子書籍に関する意見など、一聴に値すると思います。

※僕のTwiiterのフォロー仲間(Twitter:丸山高弘)になっています。

前に書いた「国立国会図書館サーチ」などの上からの視点と、地域や民間が主体となった下からの視点がコラボレーションすると、何か新しいものが生まれそうな予感がします。

僕は現在、主体的に関われませんが(今は旅をしないと(汗))、頭の片隅に置いておこうと思います。
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2010/11/08

不老山の登山道を整備する。 ~小さなことから始めよう~

不老山に登った2日後、岩田さんと2人で、崩壊した登山道の整備をしました。

台風9号による甚大な被害に対して、通りすがりの僕ができることなんてほとんどありません。
でも、「どんなに小さくても、自分にできることをする。」ことが大切です。僕の力は、吹けばすぐ吹っ飛んでしまうような、微々たるものですが、崩壊した登山道の、ほんの一部を整備することぐらいはできます。

当日、「背負子(しょいこ)にこれを乗っけって、持っていってくれ。」と岩田さんが、自作の背負子と木板や木片を指し示しました。

おー、背負子! 僕は、背負子を背負うのは初めてです。

10枚ほどの木材を背負子に縛り付けて、背負います。これで本でも読めば、まさに二宮金次郎。
何だか、ウキウキしてきます。
スキーのストックを支えに、現場(?)までゆっくりゆっくり進みます。

※岩田さんに、
「山では汗をかかないように行動しろ。」
と言われたので、何事もスローペース。
あわてないあわてない、一休み一休み。

到着後、どうやって整備するかを聞きます。
僕はまず、階段の支えになる杭を作ることになりました。

持ってきた木材を50センチぐらいの長さに切るのですが、ノコギリの使い方がほんと下手くそ(汗)。

岩田さんが、コツを解説しながら、見本を見せてくれます。

持ってきた木材を切ったあとは、倒木から杭を作ります。

台風9号の爪跡下の河原には、台風9号の影響で倒れたり、根こそぎ流された木々が数多く散乱しています。
巨木が、なぎ倒され、ゴロゴロ転がっている姿には、身震いします。

僕は慣れないのこぎりを使って、倒木から、適度な大きさに枝を切り取ります。
まさに、「おじいさんは山にしばかりに、」状態。

汗をかきかき、20本の杭を作ります。慣れていないのもあって、自転車をこぐより数倍、疲れます、、、。

杭を載せた背負子できた杭を背負子に縛り付けて、現場に戻ると、岩田さんは僕の疲れた姿を見て、昼食休憩をとってくれました。

昼食後、再度、杭を作りに下へ。
若干、ノコギリの使い方に慣れたのもあり、前回より少し早く作ることができました。

その後も、ロープ巻きつけ用の直径約15cm・長さ約1.2mの杉の丸太を切り出したり、階段を作るのを手伝ったりすると、あっという間に午後4時半を過ぎ、暗くなってきました。

岩田さんは、「一日でできる。」と言っていましたが、まだまだ全然できてません。
このままでは終われない。と、次の日も引き続き登山道を作ることにしました。

夜は、山で採ってきたアシナガキノコを入れたみそ汁などをいただき、またもやお腹いっぱいに。

そして、次の日。

木片をいっぱい載せた背負子を担いで、出陣です。

まずは前日の続きの階段作り。
クワで斜面を階段状にして、地止めの木板を杭で固定します。
一段一段作っていると、全然進まず、気が遠くなりそうです・・・。

数時間後、最も急な斜面を階段化することができました。

次は、崖に落ちないように、ロープを渡すための丸太用の穴を掘ります。
50cmほど穴を掘るのですが、これが大変(汗)。
大きな石がゴロゴロ埋まっているうえに、木の根っこが張り巡らされています。
木の根っこをノコギリでギコギコ切り落とします。
木の根っこがこんなに太いなんて、初めて知りました。

途中、昼食休憩しながら、穴を掘り続けます。

岩盤に突き当たって場所を変えたりして、何とか3ヶ所、穴を掘り、丸太を立ててロープを張りました。


登山道の急ごしらえ迂回路の整備後

これで、大ケガの危険はぐっと少なくなりました。

ちょうど暗くなってきたので、ここで終了。
あと、緩やかな斜面にも、階段を作る予定ですが、こちらは岩田さんがひとりで作るということで、僕はお役御免に。

夜、近くの食堂で「うな重」をごちそうしてくれました。
仕事のあとのご飯はおいしい。疲れもいっぺんに吹っ飛びます。

雨上がりの2日後、とても名残惜しいですが、岩田家から出発しました。
次は、岩田さんと一緒に、「富士箱根トレイル」を制覇したいと思っています。

先日、名古屋議定書が採択された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で、日本は、「SATOYAMAイニシアティブ」を提案していました。

人々が、古来より作り上げてきた里山
近年、この里山の重要性が見直され、各地で、里山保全活動が盛んに行われています。

もともと里山は、生活するために、人が自然を改造して作ったところです。
食料としてのキノコや、燃料としての薪、堆肥としての腐葉土などの確保のため、里山は、なくてはならない大切な場所でした。その時代の人にとって、冬に燃料の薪を借りるのは、食べ物を分けてもらうより、恥ずべきことだったというように、里山を保全することは最重要の仕事だったようです。

文明の発達で、その必要性がなくなったと思われた里山。
しかし、里山はまた違った意味で、人が生きるために必要なところになっていきそうです。

ただ、やっぱり里山を維持するのは大変です。
ぼくがしたこの2日の作業は、昔の人にとっては、日常の仕事。そして、岩田さんにとっても、日常の仕事。
いやぁ、本当に頭が下がります。。

そういえば、「僕の住所と名前も書いて、道標を立てておく。」と言ってたけど、立ってるのかな?
不老山に行って見かけた方は、ご連絡ください。

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2010/11/05

不老山へ ~不老を目指して~

10月18日(月)夕方、1年半ぶりに、岩田さんに会いました。
全く変わっていません。元気いっぱいの岩田さんがそこにいました。

早速、岩田さんが料理を作ってくれました。次々とおかずが出てきてお腹いっぱいです。
「明日、不老山に登りたい。」ということは伝えてありましたが、あいにく、岩田さんは、午後、議員の会合があるので一緒に登ることはできません。

僕は、サンダル・半ズボン・長袖シャツと、全く登山するいで立ちではありません(汗)。
岩田さんは、登山靴・Gパン・ウインドブレーカー・杖(スキーのストック)・リュックを貸してくれました。
夜、それらの装備を身につけて、月あかりに照らされた、小山町を散歩します。
※靴ずれのため「登山靴→運動靴」に変更。

次の日、朝食をいただき、午前9時、出発します。
登山道入口まで、岩田さんがついて来てくれます。
不老山 登山道 岩田さんと共に

道標を横目に、鬱蒼と杉の木が乱立する登山道へ。
川の横を抜けると、いきなり急斜面。崖の脇に続く階段を一歩一歩、慎重に登っていきます。
200mほど登ったところで、なんと、地滑りのため登山道が崩壊していました。
9月7日に襲われた台風9号で、崩れてしまったそうです。
崩壊した登山道

実は、この登山道は「台風9号の影響により、トレイルが崩壊しているため通行できません。 小山町」と通行止めになっています。
確かに、完全に崩壊しています・・・が、
竹やぶを切り開いて、岩田さんは自力で迂回路を作っていました。
ここまで岩田さんが付き合ってくれたのは、このためです。

登山道の急ごしらえ迂回路

でも、そこは迂回路でも何でもない・・。
急斜面の竹やぶが切り開かれ、木やツルに結んだ簡易ロープが張ってあるだけのシロモノです。
ロープを握って登ります。危ない、危ない。足がずるずる滑り、踏ん張りは全く聞かず、手の力だけでロープをたぐり寄せて登っていきます。こんな場所にロープを張るなんて、、、全く84歳の仕事とは思えません・・。
何とか迂回路を渡りきって、下にいる岩田さんに合図をします。岩田さんはそれを見届けて、家に帰って行きました。

それから、道標を見ながら先へ進みます。1時間以上登ったとき、「あっ!」と大切なものを忘れたことに気づきました。
GPS。
僕は、今回の旅に、GPSを持ってきています。

何で忘れてたんだろう?こういう時こそ必要なのに。。。

まさに痛恨の一撃・・・。
午後3時半に戻る予定です。5時すぎると暗くなってくるので、暗くなるまでの猶予は、2時間弱・・。3分ほど、さんざん迷ったあと、「一度、帰ろう。」と決心。
やっぱり、ここで悔いを残すことはできません。
天狗のように、今来た道を駆け戻ります。
登るのに苦労した迂回路は、ロープをしっかり握って、滑りながら降ります。

家に戻ると、岩田さんはびっくり!
僕が説明をすると、

「無駄なことしてるなぁ。」

と半ばあきれ顔です。

僕もほんと馬鹿な事だと思いますが、あきらめるわけにはいきません。

「急がないと、明るいうちに戻って来れないぞ。」

との忠告を胸に、再度、登山開始です。

山登りを楽しむこと以外に、今回はもうひとつ目的を作りました。
それは、熊の捕獲!
ではなく、不老山なので、やっぱり、火の鳥の生き血ゲットです!?

意気揚々と、登っていきます。
途中には、岩田さん制作の、花や鳥のイラストを描いた道標、万葉集の歌などを書き記した道標、山の形をした道標などが立ち、心を和ませてくれます。

岩田さんの道標

僕が気に入ったのは、
与謝野晶子の「やは肌のあつき血潮にふれも見で さびしからずや道を説く君」(この歌もけっこう好き。)をもじった、

不老なる山のいぶきに触れもせで さびしからずや金を説く君

という歌です。

南峰から望む富士山(見えない)
1時間半後、やっと頂上に到着。
南峰からは、富士山が望めるのですが、あいにく今日は曇り空。
富士山を見ることはかないません。

本峰のベンチ
本峰(頂上)で、岩田さんが用意してくれた弁当をいただきます。
標高約1000mなので、ベンチに座っていると、寒く感じます。

30分後、下山開始。
下山は、岩田さんに教えてもらった別ルートを通ります。
ところどころ、台風9号の影響で、登山道がえぐれています。
ぐんぐん降りると、岩田さんが勝手に(?)「不老の千(仙)人広場」と名づけた広場があります。
ここには、岩田さんの孫(中学生と高校生)が奉献したベンチが置いてありました。
千(仙)人広場

そこから、小山町が管理する林道に入ると、すごいことになっていました!

台風9号の爪跡

道が半分崩れ落ちていたり、土砂と倒木で埋まっていたり、側溝がガタガタ崩れていたりと、すごい惨状です。ズタズタに切れ目も入り、もう道じゃありません。自動車は当然通れず、僕もビクビクしながら、土砂や倒木を乗り越えたり、くぐったりして、下に降ります。

台風9号の爪跡

自然の猛威はすごい。人間の力なんて、ほんとちっぽけだ。と改めて実感しました。

公時神社前の大マサカリ
道を間違えたりして、ずいぶん時間をロスしながら、暗くなりかけた午後5時、金太郎の大きなマサカリのある金時公園(小山町は金太郎誕生の地です。)に到着。

結局、火の鳥は見つからず!?
もし、火の鳥の生き血をゲットできたら、僕はどうするだろう?
あなたは飲みますか?
不老を目指して 道標

追伸:雑誌「山と渓谷」の2009年12月号に、岩田さんの道標の特集があります。
興味のある方は、読んでみてください。
10月22日、小山町が激甚災害指定されました。

台風9号禍 小山町に激甚災害指定

いち早い復興を願っています。
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