精進湖で初めて、「元旦に、お雑煮ではなく、うどんを食べる。」という話を聞いてから、たくさんの「うどん正月」事例を聞きました。
旧芦川村、旧上九一色村、旧三珠町、旧境川村、甲府市右左口町などなど・・。富士山麓から甲府盆地の間の広範囲で聞くことができました。
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山奥の隠れ里?ここにもうどんの風習あり!
旧芦川村より、芦川をもっと下って行くと、旧上九一色村を通りすぎて、市川三郷町(旧三珠町)に入ります。
芦川沿いの集落は、旧芦川村の集落より、小さな集落。川沿いに点々と集落が続きます。
“ほとんどすべての家に”と言っていいほど、お雑煮のことを尋ねに訪れました。
ここにも、元旦に「うどん」を食べるという方がちらほらいます。
「うどんを門松にかけていた。」という方もいました。
途中、道沿いに「畑熊入口」というバス停があり、そこから細い道が山の方に延びています。
上の方に家が見えたので、お雑煮のことを聞きに行きました。
その家の方が、
「もっと山の上の方に集落があって、そこからここに降りてきたんだ。」
と指差しました。
えっ、あそこ??
指さした先は、山のほぼ頂上です。
今も住んでいる人はいるのか尋ねると、おじいさん1人とおばあさん1人、住んでいるそうです(新しく移住してきた方も数名います。)。
その2名の方に聞くために山を登るべきか迷いましたが、結局、行くことにしました。
急な坂道が続きます。途中、散歩中のおじいさんに会い、お雑煮のことを尋ねると、
「お袋が生きていたときは、“長くゆるゆる"といういわれで、うどんを食べていた。」
と答えます。
おばあさんは、ものすごい物知りだから良く知ってるはずだ。と教えていただきました。
もくもくと山を登ります。
30分後、やっと到着。
茅葺きにトタンをかぶせた古民家が転々と立っています。
こんな山奥に人が住んでいるなんて、びっくりです。ものすごく不便な場所に思えてなりません。
おじいさんにおばあさんの家の特徴を伺っていたので、迷わず、おばあさんの家に到着。
当然、昔ながらの古民家です。
声をかけると、80歳を過ぎているとは思えない、元気なおばあさんが出てきました。
やはり、元旦は「うどん」です。玄関には、うどん用の小麦粉が置いてあります。
下に住む方(たぶん60代)が「正月にうどん?食べないなぁ。」と言っていたことを話すと、「あの人達は、若いからねぇ。」と若者扱いです(笑)。
昔は、どこの家庭も元旦にうどんを食べ、夏の虫(蛇やムカデなど)を家に寄せ付けないように、うどんのゆで汁を家の周りにまいたそうです。
風土記の丘農産物直売所で知り合った甲府市の職員の方に、山梨県の民俗に詳しい方を紹介していただきました。
早速、遊亀公園にある甲府市教育委員会学事課に行きます。
紹介していただいた林さんに、お雑煮について調べていることを話すと、「お雑煮は複雑だからなぁ。」と言いながら、素早く、棚から一冊の本を引っ張り出してきました。
その論文によると、ウドン正月は、甲府盆地を中心に、北は関東山地、南は御坂山地の中腹あたりまで広がっているようです。こんなに広がっていたのかとびっくり。
執筆者は、山梨県史の専門調査員もしています。詳しい話が聞きたいと思い、連絡先を教えていただきました。
遊亀公園を出たあと、執筆者の方に電話をし、2日後に会うことになりました。
2日後、待ちに待った約束の日です。
午後5時、待ち合わせの場所に行き、執筆者の影山さんと会いました。
影山さんは勤務中だったので長く話はできませんでしたが、ウドン正月について、他県にもまたがって調べた研究報告書をいただきました。
うーん。これはすごい。
思ったよりうどん正月の地域は広いようです。これをきちんと調べていたら、どれだけ時間があっても足りない。。
どうやら小麦文化は、局地的な文化ではなく、広く深く根づいた文化のようです。