2010/07/30

民家園めぐり 第1回 ~川崎市立日本民家園と世田谷区立次大夫堀民家園~

前回の旅の間に夢中になったものの1つに、古民家や、町家、武家屋敷などの住居巡りがあります。

奈良県立民俗博物館僕が撮った写真一覧)、いわき市暮らしの伝承郷僕が撮った写真一覧)、みちのく民俗村僕が撮った写真一覧)などの移築民家群をはじめ、行く先々の土地に残っている、数多くの民家や、町家、武家屋敷を見てきました。

東京にいる間にも、江戸東京たてもの園府中市郷土の森博物館などの移築建物群や、家から歩いて行ける旧吉田屋酒店旧岩崎邸庭園、練馬区の内田家住宅などなど、ぶらっと、歴史的建造物を見に行っています。

上記の1つ1つについて語りたいことは山のようにありますが、「くどい!」とお叱りを受けそうなので(汗)、今回は、先週通った、川崎市立日本民家園と世田谷区立次大夫堀公園民家園のことについて話を進めます。

川崎市立日本民家園先週の月曜日、旅の前に一度は行くつもりだった、生田緑地にある川崎市立日本民家園に行ってきました。

梅雨が明けて、夏真っ盛りの日差しの中、家から約30㎞の距離にある日本民家園へ自転車を飛ばしました。一応、地図で調べていきましたが、お約束通り、迷子に。登戸の辺りをうろうろしながら、午後1時ごろ、やっと日本民家園に到着しました。

自転車をおりたときは、口のまわりがねっとりとして、脱水症状寸前。チケットを買って中に入ると、速攻でトイレに駆け込み、水道水をがぶ飲み!おいしい水がノドを駆け抜けていきます。一息ついて、トイレから出ると目の前に冷水器が・・。のどの渇きが強烈で、周りを見る余裕がなかったようです。。

それから、本館付属の展示室で、民家についての解説を読んだり、民具などの展示物を眺めます。ここでも、民俗学の教科書と同じく、民家の種類を、平場・山地・海辺・町の4つに分けていました(前回のブログ参照)。1時間以上かけて展示室をまわり、にわか知識を頭に叩き込み、満を持して民家を見に外へ。

冷房が効いていた展示室をでると、外はまたうだるような暑さ。
でも、古民家の中に入ると、さわやかな風が吹き抜け、とても涼しく感じます。
平安時代の寝殿造りや、徒然草に「家の作りようは、夏をむねとすべし。~」とあるように、昔から日本の家屋は、冬の寒さより、夏の暑さをしのぐことを重視してきました。いや、ほんと気持ちいい。

旧江向家住宅(富山県南砺市)のんびり見ていくと、目の前に、合掌造りの民家が!初めて合掌造りの民家を間近に見て、その威風堂々とした姿に感激!テンションあがりまくり!やっぱり実物は、写真とは全然違います。中に入ると、上に大きな火棚を取り付けた囲炉裏が2つ並んでいます。お客さま用と家族用とを分けていたそうです。興奮冷めやらず、思わず「年間パスポート」を購入してしまいました。。

時間はあっと言う間に過ぎてゆきます。水車小屋(長野県)、分棟型民家の作田家住宅(千葉県)、東北地方に分布する曲り屋などを見ていたら閉園の5時になってしまい、それでもしぶとく民家を見て回ってたら、警備員に見つかり、管理用の出口から追い出されてしまいました・・・。

合掌造りの茅葺き屋根は、段葺き??

アイヌの伝統家屋「チセ」川崎日本民家園の合掌造りで気になったことがあります。それは、茅葺き屋根が、段葺きで葺かれていること。段葺きといって思いつくのが、アイヌの伝統家屋のチセ。本土の家屋で段葺きは初めて見ました。

次回書く予定の「茅葺き体験」で、師匠(!)に質問して教えてもらったんですが、段葺きは、茅葺きの初期の形です。
通常、葺を葺いた当初は、段々になっています。その段々になっているところも合わせて、全体を特別なハサミで刈り込むことによって、すらっと平らな茅葺き屋根ができあがるのです。段葺きは、茅の茎を伝って雨水が流れ落ちますが、刈り込んだ茅葺きは、刈って斜めになった、茅の先端の部分を伝って雨水が流れ落ちます。刈った茅葺きの方が長持ちするということですが、合掌葺きのように、傾斜が斜め45度以上ある屋根は、水が素早く流れ、段葺きでも長持ちするはずだ。と、言っていました。

ネットや書籍、雑誌などで合掌造りの家をいろいろ見てみましたが、どれも段葺きではありません(参考:ネットでの画像検索)。どこかに載っていないかと根気強く調べていると、北國新聞にこんな記事があるのを発見しました。どうやら昔は段葺きだった地域があるそうです。ということは、日本民家園の合掌造りはその地域の作り方に沿って段葺きにしているということでしょうか?この前、日本民家園で尋ねたときは専門家の人が休みだったので、明日、また聞きに行こうと思っています。

年間パスポートを買ったのもあり、休園日の火曜を挟み、2日後、また日本民家園に行きました。途中、世田谷通り近くにある、次大夫堀公園民家園に寄ることに。次大夫堀公園民家園に入ると、左手目の前にある旧谷岡家住宅表門の奥の建物に人がいるのが見えます。

吸い寄せられるように近づいていくと、男の人たちが鍛冶をしていました。
彼らは、「鍛冶の会」のメンバーで、第1,3水曜日と土日に、ここで鍛冶をしているということです。今日はちょうど第3水曜日。彼らは、「今日初めてのお客さんだ。」と僕を歓迎してくれました。

次大夫堀公園民家園の鍛冶の会の活動様子この日も35度を超える猛暑日でしたが、楽しそうに、火の粉の中で、活動しています。好きってことは、ほんと素晴らしい。火箸や小刀など、作りかけのものから完成品まで、手塩にかけた製作物を見せてもらいました。みなさん、生き生きとしていて、僕も暑さを忘れかけてしまいました!

それから、民家園の中にある3棟の民家を見て回りました。
ここでは、毎日、囲炉裏で火をたいています。茅葺きは煙でいぶすことによって、長持ちします。一昨年と去年、萱の葺き替えを一棟したそうですが(葺き替え費用、各約500万円。合わせて約1000万円。)、大体20年から長くて50年ぐらい持つそうです。

現在約83万人が住んでいる世田谷区は、上品な住宅街というイメージがありますが、江戸から明治にかけて、水田や畑が広がる田舎村でした(明治31年の人口は26,621人<PDF:世田谷区資料>)。民家園では当時の様子を残そうと、蚕を育てたり、畑で野菜を育てたり、そば打ち教室や機織り教室、十三夜など多くの行事を催しています。

民家にいるスタッフの人たちと、お茶を飲んだりして長話をしていたら、ずいぶん時間が経ってしまいました。このあと、世田谷区にある、もう一つの民家園(岡本公園民家園)に行くつもりでしたが、午後3時を回っていたので、岡本公園民家園は次回にまわし、川崎市立日本民家園に向かうことにしました。次大夫堀公園民家園を出るとき、次の日曜(7月25日)に開催する「茅葺き体験」の案内パネルが目に付きました。
茅葺き体験?これは面白そうだ。日曜日、参加しようかなぁ。と思い巡らしながら、先を急ぎました。

今回はここまで。
明日、両民家園に行く予定です(4度目)。明日、あさってと、生田緑地で「生田緑地サマーミュージアム」が開催されます(甚平や浴衣を着ていくと日本民家園の入場料が無料になります。)。
25日(日)のことは、明日のことと合わせて、近いうちに書きます。

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ちょっとした写真と簡単な説明を載せたので、興味がある方は、僕のWebアルバム「民家園めぐり 2010/07/19,21,25」をご覧ください。
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2010/07/16

三重・奈良・大阪のお雑煮で気になったところ 第3回

大学生の時に履修していた選択科目の「民俗学」の教科書(『民俗学を学ぶ人のために』)には、環境の違いを基準とする分類として、

  1. 山の世界
  2. 海の世界
  3. 里の世界
  4. 都市の世界
の4つを挙げています。

本の中では、環境や生業の違いによって、風習や文化、生活様式などが異なることが、具体例を挙げて説明されています(今回、初めて読みました(汗))。
この違いは、お雑煮にも顕著に現れます。

今回の舞台は、「伊勢志摩」です。
伊勢志摩と言えば、「伊勢神宮」、そして、「海」です。

これまでは、どちらかと言えば、「山」がちなところのお雑煮を取り上げてきましたが、今回は、「伊勢神宮」と「海」にまつわるお雑煮を取り上げます。

6.三重県伊勢市の宮川を境に丸餅に。



より大きな地図で お雑煮マップ 1(三重・奈良・大阪) を表示

江戸時代、伊勢と田丸の間を流れる宮川には、橋が架かっていませんでした。伊勢に行く人たちは、川の中を歩いて、または、かごに乗ったり、人に担いでもらったりして、川を渡ったそうです。
宮川を西に渡ると、そこは、伊勢神宮の神領地です。江戸時代は幕府直轄の天領であり、そこに住む神領民は伊勢神宮の行事に参加することで税(年貢)を免除された、特別な場所でした。

この天領地に入ると、お雑煮に入れるお餅が、角餅から丸餅に変わります。
第1回で取り上げた通り、布地山地から東は角餅の領域なんですが、ここ伊勢志摩は、例外的に丸餅の領域なのです。このことは加太で借りた「三重 味の風土記」にも記載されていますが、宮川を越えていきなり、「お雑煮の中に、丸餅を入れる。」と聞いたときは、感激しました。
しかし、現在は丸餅一色ではなく、僕のお雑煮調査では、角餅と丸餅が半々ぐらいに分かれました。ただ、宮川から西の人は、ほとんどの人が角餅だったので、その違いが際立ちます。

この違いは、宮川の上流のどこまで続くのだろうか?

と疑問に思ったので、上流の方に遠征に行きました。現在の伊勢市の県境まで行って確かめましたが、県境の辺りは、ほとんどの人が角餅を使用し、結局、丸餅の領域は、上記の地図の中、大ざっぱに引いた、紫の線の東側あたりになりました。
現在の伊勢市の領域から考えると、とても限定された領域です。
なぜこんなに狭いのか?と、疑問に思い、いろいろ調べていたら、1つの事実が浮かび上がりました。
それは、江戸時代の神領地の範囲と丸餅の範囲が重なるということです。
鏡餅に見られるように、丸は四角に比べ、「神聖」だと考えられているため、神領地の治世者が丸餅を選んだのでしょうか?

伊勢国絵図で、神領地を確かめる方法
歴史街道GISのページへ行き、「コンテンツのご紹介」にある「古地図から見る」をクリック。
そこで表示される古地図を拡大すると、伊勢市市街の部分にある楕円形が、オレンジ色に塗られているのが分かる(宮川上流の「大倉」(現在の伊勢市大倉町)は、白色。)
オレンジ色のところが神領地だと思われるので、丸餅の範囲と一致する。

お店を覗けば、文化が分かる。

新しい土地に入ると、スーパーの中をグルグル歩き回って、並んでいる商品を眺めています。
今は、日本全国どこでも、同じ商品が並んでいます。しかし、注意して見ると、その土地土地に固有の商品も陳列されていることに気がつきます。

お雑煮に関しても、その土地で良く使う具材が、年末、お店で売り出されます。
僕の故郷の愛知県や、三重県では(岐阜県も?)、年末になると、小松菜に似た「餅菜(正月菜)」という菜っ葉が店頭に並びます。これは、この地方に住む人々が、お雑煮に「餅菜」を入れることが多いからです。

同じように、奈良や大阪では、年末、「雑煮大根」という大根が店頭に並ぶという話をよく聞きました。この雑煮大根は、普通の大根よりも細い大根です。なぜ細い大根が必要なのかというと、この地域では、お雑煮の具である大根や、人参、里芋などを、丸い形のまま入れる人が多いので、太い大根だとお雑煮のお椀がいっぱいになってしまうからです。
※「金時人参」を使うのも、同じ理由?

伊勢のスーパーに売っていた丸餅のパックお餅に関しても、東京や愛知県では、丸餅のパックはほとんど見かけませんが、伊勢のスーパーでは、角餅のパックと丸餅のパックが仲良く、店頭に並んでいました。


7.浦村のアンカケ、石鏡のぜんざい、国崎のアンノリ、神島のカンノモチ



より大きな地図で お雑煮マップ 1(三重・奈良・大阪) を表示

海に生きる人々は、厳しい自然に対峙するため、そして、自然状況に大きく左右される漁という生業のため、共同体(村)の固い結束を保つことが不可欠です。また、漁場争い等を避けるため、近隣の村とは、漁場を厳しく取り決めたりしていたそうです。
鳥羽市に点在する小さな漁村や島を回ってお雑煮を聞いたとき、それほど離れていない村ごとに、村独自のお雑煮があるのには、ビックリしました。

■各町・島の特徴あるお雑煮について

浦村町(四角に囲ってあるところ)
浦村町では、特産物のカキを入れたしょうゆ味のお雑煮の人もいましたが、少し茹でて柔らかくしたお餅にあんこを載せて食べる「アンカケ」と呼ぶものがあります。 おばあさん曰く、昔はお雑煮は作らずに、3が日、アンカケだけを食べていたそうです。

石鏡町(ひし形に囲ってあるところ)
小豆汁の中で丸餅を煮る、ぜんざいを食べます。上から砂糖をかけます(昔は黒砂糖という人も)。かつては3が日、ぜんざいだったようです。

国崎町(三角に囲ってあるところ)
小豆汁の中に焼いた丸餅を入れる、ぜんざいを食べます。石鏡町は餅を煮ますが、ここは焼き餅。こしあんで作るものを「アンノリ」と呼ぶ人も2名いました。

相差町や畔蛸町など(地図下部にある紫線の下)
丸餅を煮る、しょうゆ味のお雑煮。国崎町とは数㎞しか離れていないのに、ぜんざいをお雑煮の代わりに食べるという人は一人もいませんでした。 本当に不思議です。このしょうゆ味のお雑煮は、志摩地方で最も良く聞いたお雑煮。ここ相差町は鳥羽市ですが、文化的には志摩市に含まれていると考えていいのでしょうか?

神島(地図右上部の紫線で囲った隅にある島)
三重のお雑煮についての文献を調べると、頻繁に登場するのが「神島のカンノモチ」。それを確かめるため、フェリーに乗って、伊勢湾口の真ん中にぽつんと浮かぶ「神島」に行ってきました。 到着後、2人目に聞いたおばあさんが、「カンノモチ」のことを話し始めました。「カンノモチ」とは、ぜんざいのこと(「三重 味の風土記」には、老人が「ゼンザイじゃない、カンノモチじゃ」と叱った話が紹介されています)。元旦の、日の出前から始まる伝統行事「ゲーター祭」を戦に見立てて、「腹が減っては戦はできぬ。」と、カンノモチを腹の中にかき込んで出陣(?)していくそうです。

菅島(逆三角形で囲ってある島)
菅島では、「カンノモチ」と呼ぶ人は1人もいませんでしが、ここでも、「ぜんざい」を食べます。ただ、「ぜんざい」のみの人はいなくて、元旦だけ「ぜんざい」で、2日、3日はしょうゆ味のお雑煮を食べる人が多かったです。

三重県では、一年中「注連飾り」を飾る!?

三重県では、伊勢志摩を中心に、1年中「注連飾り」を飾っている家をよく見かけます。これは、蘇民将来の伝説にあやかった、この地方独特の風習です(歴史の情報蔵:今にいきづく呪符「蘇民将来子孫」)。

注連縄を作っているところ関宿の街道に並ぶ町家に飾られていた「笑門」の注連飾り神島の「大漁満足」の注連飾り七五三飾り
左上:注連飾りを手作業で作っているところ。宮川の上流は、伊勢風の注連飾りの一大産地。全国から注文が来るらしい。
右上:三重県で最もよく見かける「笑門」の注連飾り。蘇民将来之家門→将門→笑門。笑う門には福来たる。伊勢から遠く離れた、東海道の関宿でも多くの家が注連飾りを飾っていた。
左下:神島の漁業組合の建物に飾ってあった「大漁満足」の注連飾り。
右下:神島や、石鏡町、国崎町などの漁村でよく見かけた七五三飾り(しめかざり)。これは5束だが、7束のものも。

8.志摩のアンピン



より大きな地図で お雑煮マップ 1(三重・奈良・大阪) を表示

ここ志摩の鵜方には(上記の地図の南側)、「アンピン」と呼ぶお餅があると、「三重 味の風土記」に記載されていました。今も残っているのかと、鵜方にやってくると、やっぱり残っていました。

この「アンピン」は、先ほど取り上げた浦村の「アンカケ」と同じものです。
ゆでて柔らかくしたお餅に、あんこをかけたものです。僕が聞いた人の中に、お雑煮は食べずに「アンピン」だけという人はいませんでしたが、昔は「アンピン」だけだったという人が何人かいました。

おじいさんが、子どもの時に「アンピン」を食べるのを心待ちにしていたことを話してくれたことが思い浮かびます。お年を召した方ほど、お餅やお雑煮について熱く語ってくれる気がします。
お年寄りの方にお餅が好きな人が多いのは、「味は記憶に宿る」からだと思います。
お餅がとても貴重だった時代、それを食べるのを心待ちにしていた記憶が、その味を心に刻みこみます。

海と「あんこ」には深い関係がありそうです。

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これで、僕が前回の「お雑煮をめぐる冒険」で気になったことを書くのは、おしまいにします。

他にも、「三重県一身田寺内町や、城下町のしょうゆ味のお雑煮」や、「大阪の都心に伝わる、元旦しょうゆ、2日みそのお雑煮」、「鳥羽の角餅」などなど気になるお雑煮はありますが、実数が少ないのもあり、今のところ、頭の片隅に留めておくだけにします。

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2010/07/08

自己認識とは、“純真さ”を失うようなもの。(ハーバード白熱教室から)

先月上旬には出発する予定でしたが、まだ東京にいます。
グズグズしているうちに、梅雨に入ってしまい、出そびれています。

最近は、旅の準備やブログ、そっちのけで、Wカップの観戦と、NHKで先月まで放送していた「ハーバード白熱教室」にはまっています。

ハーバード白熱教室。これがマジで面白い。

トロッコ問題」の考察から講義が始まります。ある人を助けるために、人の命を能動的に奪うことは正しいこと(正義)なのか?やはり僕も「太った男」を線路に突き落とすことはできません。

ベンサム、J.S.ミルの「功利主義」や、カントの難解な「義務論」、サンデル教授自身の「コミュニタリアニズム」などなど、何度聞いても自分が本当に理解したのか不安になります。(ぶっちゃけ、理解していない(汗))

特に、第7、8回で取り上げられる、ジョン・ロールズの正義論は、目からウロコ。
「努力」における彼の考察を聞いたとき、頭を殴られたみたいに、しばらく放心状態になりました。

「努力する」という精神は普遍的なもので、心の持ちようによって誰でも身につけることのできるものだと漠然と思っていました。

しかし、ジョン・ロールズは、「努力」すらも恣意的なものだと看破しました。
ロールズは、こう言います。

ある人が強い勤労倫理を持って、根気強く頑張り、努力した、としても、その努力すら、幸運な家庭の状況により生じるものであるから、私たちは、自分の功績だとは、主張できない。

うーーーん。努力は自分の功績ではない・・・。
僕は、高校生の時ソフトテニス部に所属していました。勉強そっちのけで、インターハイに行くことばかり考えていた「テニスバカ」(英語の先生が命名。)でしたが、高3の県大会の前、「勝負は時の運。」などと考え、自分を追い込むことのないまま練習し、そのまま戦いに挑み、無残に敗れてしまいました。。(本当にパートナーや仲間たちに申し訳ない。)

そして、その挫折以来、僕は「努力信奉者」になりました。
※自分が実際に「努力のできる人間」かは棚に上げて・・・。

努力できることは才能だ。

と、いいます。
僕は、面白い表現を使って、「努力すること」を応援している言葉だと思っていましたが、ロールズは、その文字通りに、努力も「才能」と捉えているということですね。
でも、確かに、そのロールズの主張を否定することができない。これまでの自分の経験から、その側面もまた、真実だと感じます。それでもなお、(自分のことは堂々と棚に上げて、)僕は「努力の大切さ」について、変わらず主張していきたいと思います。
努力は天性のもの、育った環境によるもの等の議論は、関係ない。
それを実践しようと決意するのに、遅すぎることなんてない。
人間は変わることができる。
これもまた真理だと思っています。

もうひとつ大切なこと。
努力できない(しない)人間は、間違っているのか?劣っているのか?
もちろん、そんなことはありません。努力も、他の価値観と同様、各々が選択することができる価値観のひとつだと思います。公正に平等に。この講義を通して、「全ての人間に対する深い愛情」を感じることができました。

「この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかを見ることだった。」とサンデル教授が言うように、

正義とは何だ?
僕が今まで信じて疑わなかった正義は本当に正しいのだろうか?

と、僕の信念がグラグラとぐらつくのを感じます。
ファウスト』の中で「人間は努力する限り迷うものだ。」と、主がつぶやきます。僕もいつまでも、「迷える人」でありたいと願っています。

講義中、紹介されたアリストテレスの言葉。
「美徳とは、実践し、自分で行動することによってのみ得られるもの。」
その言葉を胸に、Wカップや参院選の後、梅雨が明けた「夏休みごろ」に出発しようと思っています。

P.S:ノーブラの学生が目につき、気になってしょうがないのは、僕だけ??

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