2010/12/31

精進湖の「ファミリーレストラン ことぶき」でお話を伺う。 ~ジビエ料理の現実と苦悩~

前回の続きです。
足和田山登山のあと、さとちゃんの車で取材先の精進湖のほとりに建つ、「ファミリーレストラン ことぶき」に行きました。

青木ヶ原樹海の中を、車で駆け抜けていきます。
やはり車は、自転車とは別世界です。この後、ここを自転車で通りましたが、思ったより遠くてびっくりしました。

富士五湖中、最も小さい湖である精進湖(周囲5km)は、あまり観光業が盛んじゃないうえ、今は観光シーズンではないこともあって、観光客はほとんどいない感じでした。

ファミリーレストラン ことぶき「ファミリーレストラン ことぶき」に到着。駐車場に車を停め、店内に入ります。

カウンターにいたスタッフの方が、席に案内してくれます。
席に着くと、薄い黄緑色のミントティーを出してくれました。たちのぼる湯気からミントの香りが漂います。早速、一口。すっきりとした爽やかな味で、シャキッとします。

しばらくすると、シェフが厨房から出てきました。

ことぶきのおすすめメニューや、ユニバーサル対応などについて、さとちゃんの取材が始まります。

そして話題は、(僕にとっての!?)核心へ・・・。

ここ精進湖・本栖湖地域では、近年「鹿カレー」を名物にしようと、町を上げて取り組み、ここ「ファミリーレストラン ことぶき」でも一番人気らしいです。

精進湖・本栖湖新名物「鹿カレー」 - 富士河口湖総合観光情報サイト

近年、全国各地で鹿の増殖・農作物被害が問題になっています。
狼が絶滅したためとか、鹿の生息地が狭くなったためとか、温暖化で冬を乗り切れるようになったためとか、いろいろ言われています。
無邪気な人間の餌付けのため、人を恐れなくなったという意見もあります。

これらの解決策のひとつとして、有害駆除される鹿を有効活用するため、最近、河口湖町に「シカ肉加工施設」ができました。ここではそこから鹿肉を購入しているということです。

しかし、このような「ジビエ料理」の提供をすることは、現実には、とても厳しい状況のようです。

シカ肉加工施設の鹿肉は、地元のハンターの方が持ち込む鹿です。
鹿肉は、血が肉の中を巡ると、臭くなってしまうので、捕獲後、2時間以内に施設に持ち込まなければいけません。そのようにして持ち込まれた鹿肉には、1頭1万円の報酬が支払われるということです。
時間制限も厳しいですが、ハンターは、通常、数名で狩りをするらしいので、1頭1万円では割が合いません。

また、罠で捕まえた鹿は、逃げようと暴れ回り、体中に血が駆け巡るため、商品として使用することができず、銃で撃った場合も、引きずって運んだりすると、血が体中を巡って、やはり肉が臭くなってしまうそうです。
一流のハンターは、血が肉に回らないように、頭や首のあたりを撃ちぬき、倒れた鹿をその場で解体して、必要な肉だけを持っていくそうです。

このような状況のため、「シカ肉加工施設」のシカ肉の供給は不安定です。

毎日新聞の記事
シカ肉加工施設:搬入頭数少なく苦戦 ハンター、利用消極的--富士河口湖町

「ことぶき」でも、できれば地元の「シカ肉加工施設」から手に入れたいと思っているようですが、やむなく、他のところから取り寄せることもあるそうです。
鹿肉を使った料理を続けることができるかどうかは、綱渡り状態だそうです。

僕は、今まで、「鹿や猪が増えているのなら、人間が食べればいいんじゃないか。」と漠然と思っていました。いつもそうですが、やはり「甘ちゃん」でした。そんな単純な話ではありません。
かつて、文明開化後の日本で、鹿や猿などをバンバン殺して絶滅寸前に追い込んだ時代もあるように、生き物をコントロールをしようとするのは、僕たち人間の叡智であり、罪でもあります。

取材後、薬膳ほうとうと鹿肉のミートソーススパゲティーを出していただきました。

薬膳ほうとう

薬膳ほうとうは、7つの薬膳(朝鮮人参・クコの実・ハト麦・ナツメ・シロキクラゲ・金針菜・松の実)が入っている、みそ味のほうとうです。
さとちゃんが薬膳に詳しく、説明してもらいながら食べたので、ひとつひとつの味を確かめることができました。薬膳についての知識があった方が、ありがたく感じます!?
幅広の麺はコシがあり、みそのスープに絡んでおいしい。ツルツルとあっという間に食べてしまいました。

鹿肉のミートソーススパゲティー

鹿肉のミートソーススパゲティーは、ミンチになった鹿肉が味を引き立てておいしい。シェフが、「きちんと血抜き処理した鹿肉はおいしい。」と言っていましたが、本当にうまい。
また、パスタには、独特の味付けがしてあり、パスタだけでもおいしくいただけます。
パスタとミートソースを絡ませ、パクっといただきます。
とても落ち着いた味で、噛んでいると口の中に味が染み出てきます。

食べ終わった後、ドサクサにまぎれて(?)、シェフにお雑煮のことを尋ねました。

「お雑煮・・・?うちは、面白すぎるかも・・・。ちょっと待ってて。」

と言って、厨房の中に消えていきます。

面白すぎる・・・? 何だろ?
ドキドキ。鼓動が高鳴ります。

しばらくして、気の良さそうなおじいさんが出てきました・・・。

(続く)

精進湖パノラマ台からの眺め

ファミリーレストラン ことぶき後日、自転車で精進湖に行ったとき、精進湖パノラマ台に登りました。
軽い気持ちで登りはじめましたが、途中から雪が残っていて足元がすべります。思ったより大変でした。

紅葉台から富士山を望む

パノラマ台からの眺めは、最高。
上記の写真は、精進湖全景です。左上の集落内のオレンジ屋根の建物は「ファミリーレストラン ことぶき」です。
運悪く、富士山山頂に雲がかかっていましたが、雄大な大パノラマを堪能することができました。

紅葉台から富士山を望む

樹海の中に人為的に作った精進湖民宿村。

ここのお雑煮も・・・。
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本一周 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/12/27

足和田山登山 ~富士山麓の自然を一望~

カムナビ邸(12月10日のブログ記事参照)で、友だちになったさとちゃんに誘われて、西湖と河口湖の南側にある足和田山の登山に行きました。

朝、カムナビ邸を訪れ、さとちゃんと一緒に車で「道の駅かつやま」に行きます。
「道の駅かつやま」で、富士山や富士五湖などのガイドをしている福村さんと落ち合い、一緒に出発点である紅葉台下の駐車場に向かいます。

東海自然歩道


東海自然歩道の道標この時歩いた、紅葉台~三湖台~五湖台のコースは、東海自然歩道として整備されています。

東海自然歩道とは、大阪の箕面と東京の高尾山の間を結ぶ自然歩道です。
コース上に街中の通りもありますが、主に、山脈・山地の、尾根から尾根をつなぐ、起伏に飛んだこの自然歩道は、とても面白そうな道です。
自転車は通れない登山道が数多く組み込まれているので、今回の旅ではあまり歩けませんが、機会を見つけて歩いてみたいと思っています。

紅葉台登山道入り口駐車場に車を停め、紅葉台に向け、登山道を歩いて登ります。

今回は、さとちゃんのお仕事である、某Webサイトの取材を兼ねての登山です。
紅葉台に到着。ここ紅葉台は、名前の通り、紅葉が素晴らしいところです。
すでに紅葉の時期は過ぎていましたが、かすかに残る紅葉の名残を、さとちゃんが持つ一眼レフのカメラに収めていきます。
そして、僕も、いつものように、手当たり次第に写真を撮ります。

紅葉台から富士山を望む
紅葉台には、紅葉展望台レストハウスが建っています。
今日は、山際に雲がかかり富士山が見えづらいですが、徐々に晴れてきて、5合目から上あたりが雲から突き出ています。

福村さんと、さとちゃんのお知り合いである管理人の方と少し話をした後、再び登り始めます。

福村さんと、話しながら登ります。
福村さんはガイドの他に、「不二せのうみ劇団」を立ち上げ、地元の小学校などで披露する演劇の脚本を書いたりもしています。
前回の劇は、縄文時代の西湖が舞台で、主人公は少年。動物にトドメをさす時(動物の生命を奪う時)のためらいと覚悟を通して、「人は命をもらって生きている」ということ(命の循環)をテーマにした劇だそうです。
とても面白そうな劇です。
※さとちゃんは、主人公の少年の妹(ツグミ)役で出演しています。

三湖台紅葉台から、20分ほど木立の中を歩くと、パッと視界が開け、三湖台に到着。
360度視界が広がる、大パノラマ。山際の雲も晴れ、遠くまで見渡すことができます。

青木ヶ原樹海と、本栖湖
西には、青木ヶ原樹海と、本栖湖。遠くには、白い冠をかぶった南アルプスの峰が連なっています。

西湖と河口湖
北には、すぐ真下に西湖が広がり、隣の河口湖は雲海に覆われ、とても幻想的でした。

ここで、テーブル付ベンチに座って、しばらく休憩。
太陽の日差しでポッカポカ。昼寝したくなります。

15分後、気を入れ直して出発。
ここから、足和田山山頂の五湖台までは、尾根を上がったり下がったり、ちょっと大変。
道標がない分かれ道などがあり、3人でどちらに行こうか思案します。すれ違うハイカーの方から、この道で正しいのかと尋ねられることも。
分かれ道に、道標がないと本当に不安になります。
岩田さんが、「富士箱根トレイルを歩く、ハイカーが迷わないように。」と、不老山などに道標を立てていたことを思い出します(不老山へ ~不老を目指して~のブログ記事参照)。どうやら、ここには、“岩田さん”はいないようです。そうですよね。あの情熱(愛)を持っている人は、そんなに多くないはずです。岩田さんのすごさをまた、思い知りました。

五湖台
1時間ほど歩き、12時過ぎに、足和田山山頂に到着。
ここは、富士五湖全てを望める場所ということで、五湖台と名前がついていますが、周りを樹木が取り囲み、ひとつも湖を見ることができません。2階建ての木製展望台がありますが、結局、見えず・・・。

その展望台のベンチで、お昼ごはんを食べます。僕は、持参した食パンや豆腐などを食べます。福村さんにコロッケをもらって、体力回復!

猪の掘った穴30分後、出発!
そのまま、道の駅かつやまに向けて、山を下ります。
こちらは、急な登山道が続きます。その登山道や、その周りに、ボコボコと穴があいています。この穴は、猪が根っこを食べるために掘った穴だということです。根っこがむき出しになる斜面は特にすごいです。
動物に会えるかなと、ちょっと思っていましたが、クマ避けの鈴をつけていたのもあり、動物の姿は影も形もありませんでした。

途中、道に迷ったりしながら、どうにか3時過ぎに、道の駅かつやまに到着。

この後、さとちゃんと2人で、この日のもうひとつの取材先である、精進湖のほとりに建つ「ファミリーレストラン ことぶき」へ行きました。

(続く)
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本一周 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/12/15

「まつや茶房」で「贈与経済」についてほっこり語る。 ~香典帳をなくすべからず。~

鍋会の数日後、鍋会で仲良くなった遠山さんが経営している「まつや茶房」に遊びに行きました。

まつや茶房

店頭のガラス越しに中を覗くと、遠山さんが編み物をしているのが見えました。店の雰囲気の中に、溶け込んでいます。
店内に入ると、小鉄と小梅(猫ちゃんたち)が出迎えてくれました。

履き物屋を改造したまつや茶房は、「昭和」を感じさせるレトロで、アットホームなインテリアに彩られています。
土間で靴(サンダル)を脱いで、店内に上がります。メインの席は、豆炭を使うコタツです。
廃材だった板を加工して作った天板は、手作り感あふれて、とてもしぶい。古いものや、素朴なものが好きな僕は、とても落ち着きます。

雑穀ご飯とトマトのキッシュ(?)こたつに入ると、商品のコーヒーを出してくれ、昼ご飯までいただいちゃいました。

コーヒーの香りがまわりに漂います。コーヒーを一口。さらっとした苦味が口の中に広がり、めちゃくちゃうまい。

自然と、この辺りの習慣の話になりました。

この辺りには、「ご近所付き合い」が残っていて、手作りのおかずなどを、頻繁にもらったりするそうです。

僕がここにいる間にも、ご近所の方が、ちょくちょく顔を出し、「この前は、ありがとねー。」って何かおすそ分けの品物を置いていったりします。

遠山さんが、体調を崩して、特に告知せず店を閉めていると、近所の方から、「風邪でもひいたの?」と電話がかかり、お粥を作って持ってきてくれたりするそうです。

遠山さんは僕と同世代ですが、ここまで色濃く「ご近所付き合い」の習慣が続いているのには、ビックリしました。

中でも、僕の興味を引いたのは、香典帳の話です。

町内の方々は、新聞の訃報欄を常にチェックしていて、今、葬式会場で誰の葬式をしているのか把握しているそうです。
知った名前を見かけると、香典帳を取り出し、以前、自分の家の葬式(お通夜)に来たかどうか、香典をいくら置いていったかを調べ、葬式(お通夜)に行くか、いくら払うかを決めるそうです。
香典帳は、このようにとても大切な物なので、いつも確かめることができるように近くに置いてあるそうです。

※当然、普段から頻繁に交流していた方については、香典帳を調べるまでもなく、葬式に訪れます。

途中から「まつや茶房」を手伝っている(?)相澤さんも話に加わり、

「香典や祝儀は、“貸し借り”だ。」
「日本のこういう習慣は、贈与経済って言うらしい。」

と話していました。

贈与経済という言葉は初めて聞きましたが、確かに、日本には、このような習慣は根づいています。
冠婚葬祭や、お歳暮やお中元(バレンタインデーも、、かな??)など、贈与の習慣は今もしっかり残り、これらは、お返しをするのが基本です。今はどんどんと簡略化、制度化されていっていますが、僕は、このような、ある程度ウェットな人間関係って必要だと思っています。
ドライな貨幣経済とウェットな贈与経済が、共存するのがよい社会なんじゃないかなぁって、素朴に思います。

注:この記事では、日本に残る上記の習慣を、「贈与経済」として当てはめています。

贈与といえば、マルセル・モースの「贈与論」

「贈与」について考察したこの本は、とても面白い本です。

贈与論」で述べられている、ポリネシアや、インディアンの贈与(ポトラッチ)の事例は、今回「贈与経済」に当てはめた、現代日本の贈与とは違っています。

買うと売る、貸すと借りるを意味する語が1つしかない社会、物々交換とは違う「贈与」が交換(取引)の原則になっている社会では、「贈ること、受け取ること、お返しすること」は、義務(ある意味、強制。)になっています。

贈与する物や事には霊が宿り、物や祝宴などを与え合うということは、権威や、名誉、精神、そして、人格をも、取引しているようなものです。贈与への返済を怠ることは、贈与者の奴隷になることを意味するほど、重く厳しいものだそうです。
このような贈与の形態には、正直驚きますが、贈与について考えるのに、いい契機になります。

ポリネシアなどの、貨幣が登場する以前の贈与、イスラム教やキリスト教、仏教など、宗教における贈与(喜捨)、そして、日本に残る贈与習慣。
何かを「あげる」ことは、人間の本質に迫る行為だと気付かされます。

ちなみに、この本の内容を、僕自身、まだ全然理解していません(汗)。僕の拙い文章では、うまく説明できないので、気が向いたら一読してみてください。

最後に、贈与論の中で述べられている、マオリ族の格言を載せておきます。

Ko Maru kai atu
Ko Maru kai mai
Ka ngohe ngohe

「貰ったのと同じだけ施しなさい。そうすれば万事うまくいく。」

こんな感じで、ここで話をしていると、あっという間に時が過ぎていきます。

ほんと、店じゃなくて家に遊びに来ているようです。

「いつでも、まつやに泊まっていってもいいよ。」

という言葉に甘え、今までにもう、2泊しました(汗)。


一昨日の夜も「まつや茶房」に泊まらせていただいていました。

昨日の午前中、じゃらんの取材&写真撮影をしていました。
僕も隣に座って取材を聞いていましたが、遠山さんの、コーヒーについての深い知識やこだわり(豆や焙煎など)には舌をまきました。そりゃ、コーヒーがおいしいわけです。水源が富士山であるここの水は、東京の日野から取り寄せている焙煎豆にピッタリなんだそうです。

猫の手を型どった、バナナブレッドとコーヒー

新作メニューを取材陣にだす前に、写真を一枚。
本邦初公開(恐らく)!
猫の手を型どった、バナナブレッドです。名前は、「小鉄の手(仮)」(250円)。
とてもおいしそうです。

まつや茶房の鼻笛チラシまた、まつや茶房は、日本鼻笛協会富士山友の会の事務局になっています(遠山さんは事務局長。)。
まつや茶房では、鼻笛も購入することができますよ。

レッツ、トライ !

ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/12/10

日本最古級の民家(非公式?!)で、猪の内蔵をいただく。

江戸時代、富士吉田市の上吉田地区には、富士みち沿いに、御師住宅が立ち並んでいました。
最盛期には、100軒ぐらいの御師住宅があったそうです。

富士御師は、各地に富士講の教えを広め、富士講の信者の富士山への信仰登山を世話し、自らの住宅を宿坊として提供していました。

富士吉田についた次の日、お雑煮について聞くため、御師住宅を尋ね歩いていました。

そのひとつの御師住宅に行ったとき、僕のことをいろいろと質問してくださる方がいました。
僕のことを一通り伝えたあと、富士吉田のことや、御師について話をしました。その方は、蔵にある膨大な御師関連の品物の整理・調査をしているところでした。家の中にはダンボールが山積みになっています。

そして、この御師住宅の話に。
なんと、この御師住宅は、柱の手斧跡などから、室町時代の建築と推定されているらしいです。古民家好きの僕は古民家に気づけば見て回っていますが、今まで江戸時代より昔の民家は見たことがありません。
現在、日本最古の民家と推定されている「箱木家住宅」は、室町時代後期の建築と推定されています。
家の中には、「県内最古の民家 天文2年(1533年)」と書かれた、富士五湖広域行政事務組合の認定証が額に入れて飾ってあります。
もし本当にそうだとすると、人が住む現役の家に絞れば、日本最古の民家ということに・・・!?

きこりさんとの2ショット1時間ぐらい話したあと、最後に仲良く写真を撮り、名刺をいただいて、カムナビ邸(御師住宅)を出ました。

その2日後、きこりさん(御師の子孫で現役の御師)に教えていただいた向原地区のお雑煮のことなどを話のネタに、もう一度、カムナビ邸を伺いました。
きこりさんはすごい物知りなので、話しているととても楽しく、あっという間に時間が過ぎていきます。

その時、きこりさんから、

「猪の肉や内蔵などをもらったから、今夜、知り合いを呼んで鍋をするけど、参加するか?」

と誘われました。

猪の内蔵?鍋?めちゃくちゃ興味があります。猪の内蔵なんて食べたことありません。
当然、僕が断るわけありません(苦笑)。

まだ午後3時頃だったので、一度、河口湖の方へ行った後、午後6時、カムナビ邸に戻ってきました。

さとこさんやお知り合いの方と、挨拶をします。
皆さん、快く僕を迎えてくれます。早速、鍋の準備。僕は、豚肉を白菜に挟んで刻んだり、リンゴの皮をむいたり、僕でもできることをします。
きこりさんは、猪の肉や内臓をさばいています。初めて見た猪の内蔵は、とてもグロテスクです。腸やレバーの形をしているのを見て、当たり前のことですが感動しちゃいました。

材料を準備し終えたら、御神前の部屋へ持っていきます。

富士吉田市の御師住宅


小佐野家住宅の式台玄関から御師住宅は、町家のように、間口に比べ、奥行きが長い構造になっています。

向かって右側に式台玄関があり、そこから座敷や廊下が続きます。座敷の奥の方に御神殿があります。部屋の構造・配置は、各御師住宅によって様々です。

富士吉田市歴史民俗博物館の付属施設である小佐野家住宅は、式台玄関から座敷を3つ挟んで、真正面に御神殿があるので、玄関から御神殿が見えますが、ここカムナビ邸は、廊下が間にあるため、玄関から御神殿を見ることができません。

また、御師住宅は、通りから100m程入ったところにある中門の奥にあります。
御師住宅の裏にも敷地があり、竹やぶや屋敷墓(きこりさんのひいおじいちゃんまで、そこにいるそうです。)などがあります。

鍋を用意した御神殿の間長い廊下を往復して、鍋の材料やお皿などを運びます。
すべての準備ができたら、仲良く、みんなでいただきます。



猪の内蔵のもつ煮早速、猪の内蔵のモツ煮込みや、レバーの竜田揚げをいただきます。
ちょっと筋がある感じがして、固めですが、歯ごたえが良く、おいしいです。きこりさんの味付けも抜群。コリコリ噛みながら、パクパクいただきます。

食べ終わった頃、ご近所に住む、御師の子孫の若者たちがやってきました。

彼らは、自分たちの資産である御師住宅をゲストハウスとして活用したりしながら、地域を活性化しようと、いろいろと考えていました。きこりさんも多くの腹案を持っているようです。

僕も、前回の旅から今まで、何度も地域の過疎化や衰退について考えさせられ、地元の人と激論を交わしたこともあります。

そこに住む人達が動かなければ、何も始まらない。やっぱり、小さなことでも、自分のできることから始めることが大切です。

鼻笛たちじゃぁ、僕にできることは?

ということで、僕は「日本鼻笛協会富士山友の会」の会員になりました(笑)。(←その場の流れのような気が・・汗)
会員は、今日の鍋会に参加したうちの4人です(僕のWebアルバムの中にいます。)。

しかも、僕は普及委員になってしまいました。(←これもその場の流れだよね??)

ちょっと練習しましたが、ちゃんと吹けるようになれば、面白いかも!?

ってことで、鼻笛に興味のある方、僕に連絡くださいっ!

楽しい鍋会がお開きになったあと、鍋会会場の「御神前の間」に布団を敷いてもらい、久しぶりに熟睡しました。

ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/12/07

富士山麓のお雑煮 第3回 ~富士吉田市のお雑煮~

富士吉田市全域を通して、僕が聞いた中で、最も多いお雑煮は、みそ味で、水かけ菜が主になり、千切りした人参や、油アゲ、椎茸などを添える、菜雑煮系のお雑煮です。

この水かけ菜は、富士吉田市で最もよく聞いた具材で、富士山の豊富な湧き水を利用して作る、この地方特有の菜っ葉です。富士吉田市から10kmほど下った都留市が産地で(御殿場市でも。)、年末、八百屋の店頭に並んだり、農家の方が売りに来たりするそうです。

町村合併の変遷図富士北麓の中心都市である富士吉田市は、明治の大合併昭和の大合併などを経て、現在の市域になりました。

富士吉田市は、富士講御師町として、商業地として、農村としてなど、多様な顔を持っています。
これらの地域ごとのお雑煮の特徴について、大まかに3つに分けて、説明します。

その地域とは、
  1. 江戸時代、富士講の御師住宅や商家が立ち並んでいた、上吉田・下吉田地区。そして、その周辺。
  2. 古くから人々が住み、土着の民俗が残っていると言われている、向原地区(明見地区)。
  3. 江戸時代まで、溶岩台地に遮られていたため「水なし村」と呼ばれていた、新倉地区。
の3つです。


1.上吉田・下吉田地区(と、その周辺)



より大きな地図で お雑煮マップ 2(関東甲信) を表示

富士檀家の分布図江戸時代、富士講の御師の布教活動などにより、富士信仰が盛んになり、特に関東地方から、多くの人々が富士山を訪れました。





御師の街並みジオラマ富士吉田の北口本宮冨士浅間神社が登り口になる吉田口は、関東の人たちが最も利用した登山口(現在も。)であり、上吉田・下吉田は、多くの人で賑わっていました。

本町通り(富士みち)沿いに、下吉田には商家が立ち並び、金鳥居から富士山側(南)に続く上吉田には、御師住宅が軒を連ねていました。

金鳥居この街道沿いの商店や家を訪問してお雑煮のことを聞くと、9割の方が、しょうゆ味でした。今も残る御師住宅の方に尋ねたところ、7軒のうち6軒の方がしょうゆ味です(内1軒はみそ、しょうゆ両方)。

関東地方から、(しょうゆ味のお雑煮である)多くの人々がやってきて文化交流が深まったことや、周りの農村と異なり、貨幣経済だったことを考えれば、江戸時代からしょうゆ味のお雑煮だったと考えることができます。

本町通りから外れた下吉田や、上吉田(新屋地区も含む)では、しょうゆ味とみそ味が混在してきます。

2.向原地区(明見地区)



より大きな地図で お雑煮マップ 2(関東甲信) を表示

小明見地区の一地区である向原地区は、地元の人が「ムキャバラ」とか「ムキャッパラ」と呼ぶ、富士吉田市でも、歴史の古い地域です。
ここの人達にとって吉田と言えば、商業地帯の上吉田や下吉田を指し、「吉田とここは違う。」とか、「(吉田と比べて)ここは田舎だからねぇ。」とおっしゃる方がいました。

この向原地区では、ほとんどの方が、前回のブログ記事で書いた、ケンチン汁のお雑煮でした。

もうひとつ気になったのは、お餅を煮る方が続いたことです。これまで僕が聞いた富士五湖周辺のお雑煮に関しては約8割の方が、お餅を焼いていたのですが、萬年寺近くの、3世代で住む旧家の方を含め、7人中5人の方がお餅を煮ていました。

向原地区以外の明見地区では、水かけ菜が主のお雑煮の方が多かったです。


3.新倉地区



より大きな地図で お雑煮マップ 2(関東甲信) を表示

新倉富士浅間神社の上にある「慰霊塔」前から富士吉田市が編纂した「新倉の民俗」には、鶏肉を入れるしょうゆ味のお雑煮が載っています。それを確かめに、新倉周辺でも聞き込みをしました。

僕の調査では、みそ味の方と、しょうゆ味の方は、大体半々くらいでした。両方の味ともに、水かけ菜が主のお雑煮の方が多いです。

しょうゆ味のお雑煮で鶏肉を入れる方に、少し話を伺うと、

「昔は、ニワトリを飼っていたから、正月には、それをしめた。」
「贅沢だけど、正月はしょうゆを買ってきて使った。」

と言っていました。

年末に餅をつかない、小林姓の人々


富士吉田市が編纂した「下吉田の民俗」に、
「小林尾張守の子孫である、小林イッケシ※1の30戸ほどの家々は、暮れに正月用の餅をつかない。」(要約)
という話が載っています。

この話を確かめるため、下吉田地区をぐるぐる歩き回り、「小林さん」を訪ね歩きました。何軒かの小林さんを訪ね、2軒の小林さんから、餅をつかないしきたりについて、伺うことができました。

「先祖が餅をついている時に不意打ちに会い、餅に血が混じった。」

ため、餅をつかないことになっているそうです。ただ、

「餅を年末につくのはダメだけど、もらったり、買ったりするのはいい。」

ということで、もらったりしたお餅を使って、元旦からお雑煮を食べています。

また、餅をつかない代わりに、年末に米粉(うるち米)で団子を作ります(1軒の方は、「餅の代わりにお雑煮に入れることもある。」とおっしゃっていました。)。
この小林イッケシの方が餅をつくのは、小正月(1月15日)の前ということです。2軒とも正月にお餅を食べていましたが、昔は、正月に団子を食べ、小正月から餅を食べ始めていたのではないか・・・と想像は膨らみます。

このような話は全国に散らばっているようです。正月にお餅自体を食べない「餅なし正月」の事例もたくさんあるようです。

■「餅なし正月」の事例と解説
東京都足立区 四ツ家の餅なし正月


※1 イッケシ(一家衆※2)・・・先祖を同じくする同族集団のこと。富士吉田周辺で、1月(や、お盆)にイッケシが(総)本家に集まって、皆でお参りしたり、食事を食べたりする行事を行っているという話を、何度か伺いました。

※2 衆・・・山梨県では、「~たち」を表すのに、「衆」をよく使います。一番初めに聞いたのは、お雑煮のことを男の人に尋ねたとき、「俺はよくわかんねぇから、オンナシ(女衆)に聞いてくれ。」と言われた時です。
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/12/02

富士山麓のお雑煮 第2回 ~じゃが芋 in お雑煮~

静岡県の小山町と御殿場では、みそ味の方も、しょうゆ味の方も、神奈川県のお雑煮と同じく、「里芋と大根」がお雑煮の具の中心にありました。

籠坂峠を越えて山梨県に入ると、具が変わります。

山梨県では、大根、人参、ゴボウ、昆布、豆腐などの多くの具が入る、ケンチン汁(ケンチャン汁)を大晦日に食べ、元旦は、それにお餅を入れてお雑煮にする方がいます。

山中湖村と富士吉田市の間にある忍野村では、僕が聞いたほとんどの方が、大晦日にケンチン汁(忍野村では、「デイゴゼイ」と呼ぶ。)を作って、元旦はお雑煮にしていました。
※今は、デイゴゼイとは別に、元旦には、しょうゆ味で、ほうれん草などの青菜を入れたお雑煮を作る家もあります。

山中湖村でお雑煮のことを聞いていたとき、多くの方からお雑煮に入れると聞いて、驚く具材がありました。

それは、「じゃが芋」です。

今までのお雑煮調査を通して、「イモ」と言えば「里芋」を指します。
泥芋、土芋、小芋(子芋)、ただいも・・・。
今まで、里芋のいろいろな呼び方を聞きました。
縄文時代に日本に伝わったとされる里芋は、人々の生活に根付いた日本の食生活に欠かせない食材です。

今まで聞いた中にも、当然、お雑煮に「じゃが芋」を入れている方はいました。
しかし、それは、地域独特ではなく、その家庭独特というものだったり、ジャガイモ、玉ネギなどを入れた、コンソメスープのような、洋風雑煮という感じのものでした。

しかし、ここ富士五湖周辺で聞くお雑煮は、大根、人参、ゴボウ、豆腐、ほうれん草など、昔から受け継がれてきた和の食材を使ったお雑煮の中に、里芋ではなく、じゃが芋が入っているのです。
多くの方がじゃが芋を挙げるので、どうも個人的なお雑煮とは違うようです。

地元の方にその疑問をぶつけると、

「この辺りは寒くて里芋がとれないから、畑でじゃが芋を作っている。」

とおっしゃっていました。

※正確に言えば、とれることはとれるが、十分な量を収穫することはできないということみたいです。

いつから、じゃが芋を作っていたのだろうか?
江戸時代からお雑煮にじゃが芋を入れていたのだろうか?

と疑問に思ったので、ちょっと調べてみました。

じゃが芋は、16世紀末、日本に伝えられました。
当初は、普及しませんでしたが、寒冷な気候にも耐え、痩せた土地でも育つため、天明の大飢饉の時、当時、甲州代官だった中井清太夫が、じゃが芋栽培を導入し、特に、寒冷な地域である富士五湖周辺の普及に尽力したということです。
そのため、山梨県では、じゃが芋のことを「せいだいも」などと呼び、江戸時代後期には、じゃが芋生産地として甲斐国の名があがり、関東一帯ではじゃが芋のことを「甲州芋」と、呼んでいたそうです。

お雑煮は、元々、神様にお供えしたものを人間が分けていただく重要な儀式の1つだったと言われています。僕も、多くの方から、「お雑煮を、まず家の神様にお供えする。」という話を伺ってきました。

神様にお供えするものですから、自分たちにとって大切なものでなければいけません。そう考えれば、自分たちを飢饉から救ってくれたじゃが芋をお雑煮に入れることは、至極当然のような気がします。

ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/11/29

茅葺き屋根のおばあさん ~タイムスリップした一夜~

山中湖に来て2日目。山中湖を1周しながら、お雑煮のことを聞いて回っていました。

山中湖北東の平野集落をうろついていたとき、土の上に、はいつくばるようにして、畑を耕していたおばあさんを見かけたので、声をかけました。

おばあさんは、

「人間は、土と、水と、太陽がなければ生きられない。」

などと、説教し始めます。

おばあさんの説教に引き込まれるように、いつの間にか、僕は歩道の上に体操座りをして説教を聞いていました。

しばらくして、おばあさんは、

「今日はうちに泊まっていけばいい。」

と言いました。

天野家住宅僕はちょっと迷いましたが、

「そこの草葺きの家だ。」

と言われたときには、目を見開いて、興奮。
実は先ほど、お雑煮のことを聞こうとその家を訪れ、茅葺き好きの僕は、茅葺き屋根の家に感動していたのです。

暗くなった5時過ぎ、茅葺きの家を訪問します。

おばあさんは、割烹着を着て、もんぺをはき、頭に手ぬぐいを巻いています。

展示用ではない、現役の茅葺き屋根の家に初めて上がりました。
改修はしていますが、建てたのは170年前だそうです。最後に茅葺きしたのは約40年前で、おばあさん自身も手伝ったようです。
さすがに今は、天井がはってあり、台所やお風呂もあり、土間も玄関のようになっています。

掘りごたつに入り、お茶をいただきます。
お茶を入れてくれるシワだらけのおばあさんの手は、長年の農作業などで、太くたくましい立派な手です。
休憩していると、おじいさんが帰ってきました。
おじいさんとおばあさんの2人だけの会話は、方言が強くて、ちょっと聞き取れません(汗)。

話が終わると、

「今日は、長芋と卵を入れてそば粉を練っておいたから、打つべ。」

と言って、台所でそばを打ち始めました。

そばを打つおばあさん家庭でそばを打つのを見るのは、初めてです。

おばあさんは、のし板の上に麺玉をのせ、まず足で踏みつけ、そばの麺玉を叩きながら丸くし、打ち粉を勢いよくふりかけながら、のし棒で麺玉を徐々に伸ばしていきます。
もう体が覚えている感じで、のし棒を手足のように、いろいろな角度からコロコロ回します。長唄のような歌を歌いはじめました。麺玉が、丸く薄く広がっていきます。

今日もまた、ほうとう?うどんがいいなぁ。えっ!そば!!

「山梨県史 民俗編」の「一日 ー一日のケの生活ー」の項目に、「ある1日」の解説が載っています。

その「夕食」のところには、

普段の夕食の中心は、ホウトウ。来客があるときは、ウドンやヒヤムギ。もっとぜいたくなのは、蕎麦。

などと書いてあります。

山梨県の郷土料理であるホウトウは、野菜を比較的多く入れて煮込むので、うどんに比べ小麦の量が少なくてすむ(うどんの3分の1)経済的な食べ物です。
山梨県は、山に囲まれた、お米があまりとれない地域。特にここ山中湖は山梨県でも最も寒く、主食は、大麦、小麦、モロコシなどのコナモノでした。

ホウトウなどの郷土料理は、今では観光の目玉になっていますが、その土地土地の厳しい自然環境の中、地元で取れるものを使って、いかにおいしく日常的に食べられるか、先人が経験や知恵を絞ってあみ出したものだということが、よく分かります。

かつて、山梨県のお母さんは、毎夜毎夜、家族のために、のし板とのし棒をふるって、小麦粉を打っていました。

「風呂、へーらねぇか?」

と言われたので、先にお風呂に入り、久しぶりに(!?)体を洗います。

きれいに切られたそばお風呂から出てくると、きれいに切られたそばが、新聞紙の上に置いてあります。瑞々しくキラキラ光って、おいしそうです。



できあがったそば堀りごたつに入ると、ツヤツヤ光る、プルンプルンしたそばが、てんこ盛りで出てきました。
つゆは、いろいろな野菜が入る、さっぱりした醤油汁です。

「ナンバン、いれねぇべか?」

と言われ、最初、理解できませんでしたが、じきに、唐辛子のことだと気づきました。

おいしい!
そばは、しっかりコシがきき、弾力があります。
熟練者であるおばあさんの手打ちそばは、うまい。僕が食べたそばで一番の味です。
水でしめてあるので、麺は冷たいです。
ラーメンのつけ麺と同じく、つゆが覚める欠点がありますが、そんなことは百も承知のおばあさんは、何度も熱いつゆを入れてくれました。

「今日は、カモや、キジの肉がねぇから、ごちそうできねぇべ。」

と言ってましたが、十分なごちそうです。

食後、おばあさんと話をします。

おばあさんは、「厳しく、熱い人」です。
戦前の教えが今も 骨身にしみ込んでいます。
「尋常小学と高等科(今の小学校と中学校)しか出ていない。」と何度も言っていましたが、その時習ったことを、84歳になる今まで、全く忘れていないことに驚きです。

シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」の話。
因幡の白兎の話。
間宮林蔵の話。
などなど。

教育勅語を暗唱し、内容を説明してくれました。

僕が何も知らないため、

「今の学校は何を教えているんだ?」

と、嘆いていました。

僕は、

「今は修身の授業はないんですよ。。」

と、自分の不勉強を棚にあげて、意味不明なことをタジタジと言うだけです(汗)。

僕はこの時、教育のすごさを、身にしみて痛感しました。

このような教育を受けた人々が、日本の戦争を支えていたんだ。と実感したのと同時に、多くの人が衣食住に困らない、便利な今の日本社会は、おばあさんのような人たちが築いてきたんだ。と、深く考えさせられました。

僕は、

戦時中に若者だったら、果たして、特攻隊に志願したか?

と考えることがあります。

僕は、思い込んだら頑固に思い込むクセがあるので、戦前の教育を受けていたら、特攻隊に志願していたんじゃないか。と思ったりしますが、正直に言えば、「特攻隊に志願する人間であってほしい。」と密かに願っています。

果たして、僕はどういう人間なんだろうか。まだよく分かりません。

他にも、

職種に恥はない。
人生に今日の日は、今日しかない。
情けのある人間になれ。

などなど、まだまだ書ききれないほどの金言を述べていました。

特に、努力については、

努力に勝る秀才なし。
運勢は、「勢いを運ぶ」と書く。だから、運も自分自身の努力で引き寄せなければいけない。

などと、何度も言及していました。

これらの金言は、「言うは易し、行うは難し。」です。実践することは難しい。
しかし、おばあさんには、それらの言葉が骨の髄までしみ込んでいるようです。
おばあさんから、その日その日を精一杯生きる心構えとその実践について、教えていただきました。

なんて、火傷しそうな熱い話を聞いていると、もう12時。
いつも10時頃には寝ている僕は、さすがに眠いです。
梅子さんの「ねべーな。」の合図で、寝る準備に入ります。
家の奥の「オクンデイサ」(奥座敷)に僕のための布団を敷いてくれたので、挨拶をして居間を出ます。

2度と来ない「今日の日」が終わりました。

山中湖情報創造館で「山中湖周辺の民俗」という本を読んでいると、なんと天野梅子さん(茅葺き屋根のおばあさん)のそば打ちの写真が載っていました。
他にも、天野家住宅の間取り図や、写真、解説まで載っています。

やはり、天野さん夫婦は、山中湖の民俗における数少ない生き証人のようです。
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/11/26

富士山麓のお雑煮 第1回 ~みそ味のお雑煮~

富士山の東南麓などを源流とする「鮎沢川」は、神奈川県に入ると「酒匂川」と名前を変えます。

ちょうどその酒匂川が鮎沢川に変わる直前、「先祖代々、ここに住んでいる。」とおっしゃっていた方のお雑煮は、「みそ味」でした。
今回の旅で、地元出身の方に初めて聞いた、「みそ味のお雑煮」です。

酒匂川を渡り、静岡県小山町に入ると、みそ味のお雑煮が増えてきます。

前回の旅と合わせて考えると、みそ味のお雑煮には2つの理由が考えられます。

ひとつは、 歴史の古いお雑煮です。

前回の旅で尋ねた大阪や奈良など、近畿地方とその周辺は、みそ味のお雑煮を作る方が多いです。

お雑煮ができたころ(室町時代)の文化の中心は、「京都」でした。
そのころのお雑煮は、しょうゆの原型である「たれみそ」を使っていたそうです(P.104-105『祝いの食文化』)。
「たれみそ」は、みそから作る液体ですが、手間がかかるので、みそをそのまま使ったのが、京都のお雑煮になり、京都の文化圏である近畿周辺に「みそ味のお雑煮」が広まったと考えられます。

もうひとつは、山(田舎)のお雑煮です。

富士山麓や、前回聞いた三重県の伊勢湾方面の山側などには、みそ味のお雑煮を作る方が、広く分布しています。

おみそは、各家庭で代々、作られてきましたが、しょうゆは、購入するものでした。
江戸時代は、基本、自給自足で、村内や近くの村との物々交換で生活が成り立っていました。環境が厳しい山の中では、特にその傾向が強くなります。そのような地域では、しょうゆを手に入れるのは難しく、自然と自家製のみそを使ったお雑煮になってきます。
山中湖や河口湖周辺のお年寄りの方の中には、「昔はしょうゆなんてなかった。」とおっしゃる方が何人かいましたが、しょうゆが自由に手に入るようになったのは、ごく最近のことです。

このような「山(田舎)」がベースにあるみそ味は、どうしても「しょうゆ味」に流れていく傾向があります。
東日本ではしょうゆ味のお雑煮が圧倒的に多いうえ、メディアでも、しょうゆ味のお雑煮の情報が頻繁に流されています。
このような影響で、「昔はみそだったけど、今はしょうゆ。」という人が多くなっているように思います。
また結婚相手がしょうゆ味だと、しょうゆ味になる傾向も多いように感じます。

反対に、しょうゆ→みそのパターンは、ものすごく少なく、実際に僕が聞いた、関東平野や足柄平野の地元出身の方の中に、「みそ味のお雑煮」の方はいませんでした。

■しょうゆ味のお雑煮は、江戸のお雑煮。

しょうゆの製造・流通が確立されたのは、江戸時代に入ってからです。
雑煮の文化自体は京都が発祥ですが、しょうゆ味のお雑煮は、しょうゆが比較的手軽に手に入るようになった、江戸の町から始まったと考えることができます。

江戸時代中期、日本の文化の中心が、徐々に江戸に移行していきます。
参勤交代で江戸に来ていた各国の大名が、この「正月のしょうゆ味の雑煮文化」を自国に持ち帰って、全国的にお雑煮が広まったと考えることができます。



より大きな地図で お雑煮マップ 2(関東甲信) を表示

正月にお雑煮を食べ始めたのは、津島の人々!?

僕の故郷の愛知県津島市の図書館(僕が通っていた中学・高校の隣にあります。)が、「正月の雑煮発祥地は津島」というトンデモ説(!?)を唱えていました(地元で伝わる話?)。

津島市立図書館 図書館だより 2008年10~12月版
※12/26に、その説が載っています。

正月にお雑煮を食べることについての、最も古い文献のひとつである「言継郷記」によると、天文三年(1534)正月元旦に雑煮の記載があります(P.97『祝いの食文化』)。

しかし、「浪合記」という書物には、津島に来ていた良王に、正月元旦、雑煮を出したという記述があります。

同八年正月元旦雑煮を良王に上る。
「国立国会図書館 近代デジタルライブラリー」より抜粋。左ページの真ん中あたり。

この「同八年」とは永享八年。西暦では、1436年。

「言継郷記」の記述から100年も古い!
なるほど・・。まさに、津島が正月の雑煮発祥の地だ!

と言いたいのですが、この「浪合記」は江戸時代初期に書かれた(と思われる)書物で、今でいう歴史小説のようなもの。

真実は藪の中・・。まぁ、歴史はロマンなので・・・(汗)。
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/11/16

寒さにやられる(涙) ~紅葉の山中湖~

御殿場に着いて2日目(10月26日)から、テントを張り始めました。

それまでは最低気温が10度以上で、暑くもなく寒くもなく、とても快適でしたが、御殿場は標高約500m。最低気温が10度以下になり、テントなしでは寒くなりました。

テントの中と外は、大体3度ぐらい違います。
テントは風も遮れるので、体感温度はもっと違います。御殿場では、テントを張って持っている服を着こめば、普通に寝ることができました。

御殿場でお雑煮を聞き回ったり、御殿場プレミアム・アウトレットに行ったりして、台風をやり過ごした後、その装備のまま、11月1日、御殿場を出発。

富士山が顔を出す御殿場から籠坂峠に向かう途中、御殿場に着いてやっと、富士山が顔を出しました。
須走浅間神社でお参りして、籠坂峠へ。

籠坂峠にある加古坂神社にお参りに行くと、落ち葉がじゅうたんのように敷き詰められた木立の中に、自衛隊の方たちが数十人いました。
皆、迷彩服を着て顔を黒く塗っています。自動小銃が足下に置いてあり、すごい生々しい。迷彩服があんなに木立の中にとけ込むのには、ビックリしました。
須走には、陸上自衛隊富士学校があるので、訓練をしていたのだと思います。

そして、暗くなるちょっと前に、山中湖に到着。

夕焼けの渚・紅葉祭り山中湖は紅葉真っ盛り。

旭日丘公園では、「夕焼けの渚・紅葉祭り」が開催されていたので、会場内の散策路歩きながら、紅葉を愛でます。

色づいたカエデまだ緑のカエデ。黄色く色づき始めたカエデ。見事に真紅に染まったカエデ。軽快なコントラストで、散策路を彩ります。

下から緑、黄、赤と鮮やかにグラデーションしていくカエデには、言葉が出ません。

旭日丘公園の展望台から見た富士

次の日の朝、太陽の日差しを浴びて、カエデたちが鮮やかに浮かび上がります。湖の先では、富士山の緩やかななで肩が、青空の中くっきりと映えていました。

到着した翌日から、連日、深夜0度前後まで冷え込みます。
標高約1000mの山中湖は、20年ぐらい前まで湖全面が凍結していたほど、山梨県でも最も寒いところです。
僕は真冬用の装備をしてきていません。完全な装備不足・・・。
深夜、寒くて何度も起き、3時以降まともに寝ることができません。
特に足が寒い、というか、痛いです。
靴下を4重に履いても、やっぱり、痛い・・。上半身は、持っている7枚の服を総動員して、何とか耐えられるかという感じです。

このままじゃ病気になってしまうと、ヤフオクで冬用の寝袋を落札しました。

届いた冬用寝袋は、今までの寝袋の3倍超の大きさがありますが、持っている服を着込み、靴下を2重にすれば氷点下でもそれほど寒くなく寝ることができました。

これで、一安心。
先日、-4度まで下がりましたが、大丈夫でした。
これからやってくる冬もこれで何とか乗り切ることができそうです。

「はだしのまさとマン」(小学生の頃のあだ名)としては、ちょっとつらいですが、3日前から、昼間も裸足ではなく、靴下を履いています。。

マリモ通りの紅葉

1週間ちょい山中湖にいる間、日に日に、木立や山が、黄色や赤に移り変わっていきました。
季節の変わり目を五感で感じる、素晴らしい体験をすることができました。

■「新しい公共」の実践例 山中湖情報創造館

情報創造館山中湖には、山中湖情報創造館という図書館があります。

夜9時まで開いていて、休館は月末のみ。電源や無線LANが使い放題です。
大正時代の建物をイメージした木造建築で、ぬくもりが感じられる、居心地のいい建物です。
山中湖にいるときは、毎日のように、ここを利用していました。

この情報創造館は、運営、管理を民間に委託した全国初の「公設民営図書館」です。
最近、熱いところでは熱い「新しい公共」の実践例のひとつ。

こんなに至れり尽くせりのサービスを、住民が少ない村でしていいのか??(僕の実感では実際に利用している人も少ない。)

と疑問に思ったので、この館の館長である丸山高弘さんと少し話をしました。

丸山さんは、「公務員より柔軟に図書館員を配置をしたり、効率的に運営することで、村が運営するよりもお金がかからない。」というようなことを話していました。
公共施設の運営を民間に任せる事例は、最近ドンドン増え、丸山さんたちのようなNPO等が、プレゼンをして入札を競っているそうです。
Twitterなどで書いていますが、図書館が出版機能や編集機能を持ってもいいんじゃないかという意見や、図書館発の電子書籍に関する意見など、一聴に値すると思います。

※僕のTwiiterのフォロー仲間(Twitter:丸山高弘)になっています。

前に書いた「国立国会図書館サーチ」などの上からの視点と、地域や民間が主体となった下からの視点がコラボレーションすると、何か新しいものが生まれそうな予感がします。

僕は現在、主体的に関われませんが(今は旅をしないと(汗))、頭の片隅に置いておこうと思います。
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本一周 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/11/08

不老山の登山道を整備する。 ~小さなことから始めよう~

不老山に登った2日後、岩田さんと2人で、崩壊した登山道の整備をしました。

台風9号による甚大な被害に対して、通りすがりの僕ができることなんてほとんどありません。
でも、「どんなに小さくても、自分にできることをする。」ことが大切です。僕の力は、吹けばすぐ吹っ飛んでしまうような、微々たるものですが、崩壊した登山道の、ほんの一部を整備することぐらいはできます。

当日、「背負子(しょいこ)にこれを乗っけって、持っていってくれ。」と岩田さんが、自作の背負子と木板や木片を指し示しました。

おー、背負子! 僕は、背負子を背負うのは初めてです。

10枚ほどの木材を背負子に縛り付けて、背負います。これで本でも読めば、まさに二宮金次郎。
何だか、ウキウキしてきます。
スキーのストックを支えに、現場(?)までゆっくりゆっくり進みます。

※岩田さんに、
「山では汗をかかないように行動しろ。」
と言われたので、何事もスローペース。
あわてないあわてない、一休み一休み。

到着後、どうやって整備するかを聞きます。
僕はまず、階段の支えになる杭を作ることになりました。

持ってきた木材を50センチぐらいの長さに切るのですが、ノコギリの使い方がほんと下手くそ(汗)。

岩田さんが、コツを解説しながら、見本を見せてくれます。

持ってきた木材を切ったあとは、倒木から杭を作ります。

台風9号の爪跡下の河原には、台風9号の影響で倒れたり、根こそぎ流された木々が数多く散乱しています。
巨木が、なぎ倒され、ゴロゴロ転がっている姿には、身震いします。

僕は慣れないのこぎりを使って、倒木から、適度な大きさに枝を切り取ります。
まさに、「おじいさんは山にしばかりに、」状態。

汗をかきかき、20本の杭を作ります。慣れていないのもあって、自転車をこぐより数倍、疲れます、、、。

杭を載せた背負子できた杭を背負子に縛り付けて、現場に戻ると、岩田さんは僕の疲れた姿を見て、昼食休憩をとってくれました。

昼食後、再度、杭を作りに下へ。
若干、ノコギリの使い方に慣れたのもあり、前回より少し早く作ることができました。

その後も、ロープ巻きつけ用の直径約15cm・長さ約1.2mの杉の丸太を切り出したり、階段を作るのを手伝ったりすると、あっという間に午後4時半を過ぎ、暗くなってきました。

岩田さんは、「一日でできる。」と言っていましたが、まだまだ全然できてません。
このままでは終われない。と、次の日も引き続き登山道を作ることにしました。

夜は、山で採ってきたアシナガキノコを入れたみそ汁などをいただき、またもやお腹いっぱいに。

そして、次の日。

木片をいっぱい載せた背負子を担いで、出陣です。

まずは前日の続きの階段作り。
クワで斜面を階段状にして、地止めの木板を杭で固定します。
一段一段作っていると、全然進まず、気が遠くなりそうです・・・。

数時間後、最も急な斜面を階段化することができました。

次は、崖に落ちないように、ロープを渡すための丸太用の穴を掘ります。
50cmほど穴を掘るのですが、これが大変(汗)。
大きな石がゴロゴロ埋まっているうえに、木の根っこが張り巡らされています。
木の根っこをノコギリでギコギコ切り落とします。
木の根っこがこんなに太いなんて、初めて知りました。

途中、昼食休憩しながら、穴を掘り続けます。

岩盤に突き当たって場所を変えたりして、何とか3ヶ所、穴を掘り、丸太を立ててロープを張りました。


登山道の急ごしらえ迂回路の整備後

これで、大ケガの危険はぐっと少なくなりました。

ちょうど暗くなってきたので、ここで終了。
あと、緩やかな斜面にも、階段を作る予定ですが、こちらは岩田さんがひとりで作るということで、僕はお役御免に。

夜、近くの食堂で「うな重」をごちそうしてくれました。
仕事のあとのご飯はおいしい。疲れもいっぺんに吹っ飛びます。

雨上がりの2日後、とても名残惜しいですが、岩田家から出発しました。
次は、岩田さんと一緒に、「富士箱根トレイル」を制覇したいと思っています。

先日、名古屋議定書が採択された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で、日本は、「SATOYAMAイニシアティブ」を提案していました。

人々が、古来より作り上げてきた里山
近年、この里山の重要性が見直され、各地で、里山保全活動が盛んに行われています。

もともと里山は、生活するために、人が自然を改造して作ったところです。
食料としてのキノコや、燃料としての薪、堆肥としての腐葉土などの確保のため、里山は、なくてはならない大切な場所でした。その時代の人にとって、冬に燃料の薪を借りるのは、食べ物を分けてもらうより、恥ずべきことだったというように、里山を保全することは最重要の仕事だったようです。

文明の発達で、その必要性がなくなったと思われた里山。
しかし、里山はまた違った意味で、人が生きるために必要なところになっていきそうです。

ただ、やっぱり里山を維持するのは大変です。
ぼくがしたこの2日の作業は、昔の人にとっては、日常の仕事。そして、岩田さんにとっても、日常の仕事。
いやぁ、本当に頭が下がります。。

そういえば、「僕の住所と名前も書いて、道標を立てておく。」と言ってたけど、立ってるのかな?
不老山に行って見かけた方は、ご連絡ください。

ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本一周 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2010/11/05

不老山へ ~不老を目指して~

10月18日(月)夕方、1年半ぶりに、岩田さんに会いました。
全く変わっていません。元気いっぱいの岩田さんがそこにいました。

早速、岩田さんが料理を作ってくれました。次々とおかずが出てきてお腹いっぱいです。
「明日、不老山に登りたい。」ということは伝えてありましたが、あいにく、岩田さんは、午後、議員の会合があるので一緒に登ることはできません。

僕は、サンダル・半ズボン・長袖シャツと、全く登山するいで立ちではありません(汗)。
岩田さんは、登山靴・Gパン・ウインドブレーカー・杖(スキーのストック)・リュックを貸してくれました。
夜、それらの装備を身につけて、月あかりに照らされた、小山町を散歩します。
※靴ずれのため「登山靴→運動靴」に変更。

次の日、朝食をいただき、午前9時、出発します。
登山道入口まで、岩田さんがついて来てくれます。
不老山 登山道 岩田さんと共に

道標を横目に、鬱蒼と杉の木が乱立する登山道へ。
川の横を抜けると、いきなり急斜面。崖の脇に続く階段を一歩一歩、慎重に登っていきます。
200mほど登ったところで、なんと、地滑りのため登山道が崩壊していました。
9月7日に襲われた台風9号で、崩れてしまったそうです。
崩壊した登山道

実は、この登山道は「台風9号の影響により、トレイルが崩壊しているため通行できません。 小山町」と通行止めになっています。
確かに、完全に崩壊しています・・・が、
竹やぶを切り開いて、岩田さんは自力で迂回路を作っていました。
ここまで岩田さんが付き合ってくれたのは、このためです。

登山道の急ごしらえ迂回路

でも、そこは迂回路でも何でもない・・。
急斜面の竹やぶが切り開かれ、木やツルに結んだ簡易ロープが張ってあるだけのシロモノです。
ロープを握って登ります。危ない、危ない。足がずるずる滑り、踏ん張りは全く聞かず、手の力だけでロープをたぐり寄せて登っていきます。こんな場所にロープを張るなんて、、、全く84歳の仕事とは思えません・・。
何とか迂回路を渡りきって、下にいる岩田さんに合図をします。岩田さんはそれを見届けて、家に帰って行きました。

それから、道標を見ながら先へ進みます。1時間以上登ったとき、「あっ!」と大切なものを忘れたことに気づきました。
GPS。
僕は、今回の旅に、GPSを持ってきています。

何で忘れてたんだろう?こういう時こそ必要なのに。。。

まさに痛恨の一撃・・・。
午後3時半に戻る予定です。5時すぎると暗くなってくるので、暗くなるまでの猶予は、2時間弱・・。3分ほど、さんざん迷ったあと、「一度、帰ろう。」と決心。
やっぱり、ここで悔いを残すことはできません。
天狗のように、今来た道を駆け戻ります。
登るのに苦労した迂回路は、ロープをしっかり握って、滑りながら降ります。

家に戻ると、岩田さんはびっくり!
僕が説明をすると、

「無駄なことしてるなぁ。」

と半ばあきれ顔です。

僕もほんと馬鹿な事だと思いますが、あきらめるわけにはいきません。

「急がないと、明るいうちに戻って来れないぞ。」

との忠告を胸に、再度、登山開始です。

山登りを楽しむこと以外に、今回はもうひとつ目的を作りました。
それは、熊の捕獲!
ではなく、不老山なので、やっぱり、火の鳥の生き血ゲットです!?

意気揚々と、登っていきます。
途中には、岩田さん制作の、花や鳥のイラストを描いた道標、万葉集の歌などを書き記した道標、山の形をした道標などが立ち、心を和ませてくれます。

岩田さんの道標

僕が気に入ったのは、
与謝野晶子の「やは肌のあつき血潮にふれも見で さびしからずや道を説く君」(この歌もけっこう好き。)をもじった、

不老なる山のいぶきに触れもせで さびしからずや金を説く君

という歌です。

南峰から望む富士山(見えない)
1時間半後、やっと頂上に到着。
南峰からは、富士山が望めるのですが、あいにく今日は曇り空。
富士山を見ることはかないません。

本峰のベンチ
本峰(頂上)で、岩田さんが用意してくれた弁当をいただきます。
標高約1000mなので、ベンチに座っていると、寒く感じます。

30分後、下山開始。
下山は、岩田さんに教えてもらった別ルートを通ります。
ところどころ、台風9号の影響で、登山道がえぐれています。
ぐんぐん降りると、岩田さんが勝手に(?)「不老の千(仙)人広場」と名づけた広場があります。
ここには、岩田さんの孫(中学生と高校生)が奉献したベンチが置いてありました。
千(仙)人広場

そこから、小山町が管理する林道に入ると、すごいことになっていました!

台風9号の爪跡

道が半分崩れ落ちていたり、土砂と倒木で埋まっていたり、側溝がガタガタ崩れていたりと、すごい惨状です。ズタズタに切れ目も入り、もう道じゃありません。自動車は当然通れず、僕もビクビクしながら、土砂や倒木を乗り越えたり、くぐったりして、下に降ります。

台風9号の爪跡

自然の猛威はすごい。人間の力なんて、ほんとちっぽけだ。と改めて実感しました。

公時神社前の大マサカリ
道を間違えたりして、ずいぶん時間をロスしながら、暗くなりかけた午後5時、金太郎の大きなマサカリのある金時公園(小山町は金太郎誕生の地です。)に到着。

結局、火の鳥は見つからず!?
もし、火の鳥の生き血をゲットできたら、僕はどうするだろう?
あなたは飲みますか?
不老を目指して 道標

追伸:雑誌「山と渓谷」の2009年12月号に、岩田さんの道標の特集があります。
興味のある方は、読んでみてください。
10月22日、小山町が激甚災害指定されました。

台風9号禍 小山町に激甚災害指定

いち早い復興を願っています。
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本一周 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。