2011/05/30

モンキードッグ、大活躍!~人間と野生動物の共存は、夢のまた夢?~

去年の年末、カムナビ邸の「餅つき会」に参加した時に、クマやサルなどの農林業被害や、その対策について研究している吉田洋さんと、知り合いになりました。

今回の記事は、後日、サルの生態調査に同行した時のことについてです。

吉田さんが設置していた罠にサルが捕まったと聞き、僕も調査に参加させていただきました。

朝、吉田さんのパートナーである藤園さんと待ち合わせて、罠を設置した現場に向かいました。
藤園さんは、吉田さんと共に、野生動物と人間の共存の実現に向け、NPO法人 獣害対策支援センターを立ち上げています。

住宅に隣接する現場に近づくと、30匹ぐらいの猿の群れが住宅地の隣まで降りてきて、草地に生えている草の根を食べたりしています。
藤園さんは、近くの会員の方と協力して、ソフトエアガンを使ってサルを追い払っていました。近年、サルが人里におりてきて、農作物を食い荒らす被害が多発しているようです。
それから、モンキードッグを放します。モンキードッグとは、サルを追い払うように訓練された犬です。
猛ダッシュで山の方に駆けていき、サルを見つけては「ワン!ワン!」と吠えて、山の方に追い立てていきます。

サルの捕獲記録中山沿いに仕掛けていた檻の方に行くと、吉田さんが来ていました。檻には、サルが2匹、捕まっていました。
サルを眠らせ、体の寸法を測るなど捕獲記録を取ります。
そのサルには、首にVHF発信器が取り付けてありました。以前、捕まえたことのあるサルのようです。サルの群れがどこにいるか把握するため、捕まえたサルにはVHF発信器を取り付けています。

モンキードッグ、訓練中しばらくして、モンキードッグの訓練をしている方がやってきました。

車から犬を出して、檻の中のサルにけしかけます。
犬は、はじめ、サルに興味を示しませんでしたが、徐々に追い回すようになりました。
このようにサルを追うように訓練してから、山に放すと、サルを追いかけるようになります。
このモンキードッグは効果抜群で、犬に追われたサルの群れは、しばらくその辺りに出没しなくなるそうです。

捕まえたサルの記録をとったあと、新しいVHF発信器をとりつけ、サルを逃しました。

午後、吉田さんと車に乗って、サルの群れの実態調査に行きました。

この近辺には、サルの群れが3組いるそうです。
吉田さんは、休みを返上してまで、地道にサルの群れの調査をしています。数多くの調査を通して行動パターンを分析します。サルの群れがどの辺りに潜んでいるか目星をつけ、近辺を調査します。

サルの実態調査富士吉田市から都留市まで、ポータブルのアンテナを使って、VHF発信器を取り付けてきたサルの発信を、確認します。
吉田さんは、群れが山のどの位置に移動しているか、おおよそ把握していますが、このような、自分の足で現場を歩きまわる調査が欠かせません。
サルの群れを探しながら、山際の住宅地の間を移動していると、住宅地のすぐ隣までサルの群れが来ていました。

プチマリちゃんのご飯調査が終わったあと、富士吉田の吉田さんの家に行き、ご飯をいただきました。
藤園さんが実家のお雑煮(藤園さんのアレンジあり!?)を作ってくれました。
とてもおいしくいただきました。

人間と野生動物の共存に向かって

今回、僕がなぜ吉田さんと会って話をしたかったのかというと、実は、去年の7月、クマが富士急ハイランド近くに出没したときに、吉田さんが吹き矢でクマを眠らせ、山に帰したという話を聞いたからです。

去年、日本のいたるところで、クマが人里に出没するニュースが相次いでいました。
人里におりてきたクマを山に帰すべきか、それとも、殺すべきか・・。どちらがいいのか僕には、正直わからないので、いろいろと話を聞きたいと思ったのです。

実際に、最前線で活動している吉田さんや藤園さんと話をして、非常にデリケートで複雑な問題だと実感しました。

実際に農作物被害にあったり、クマに襲われる危険がある地域の人にとって、サルやクマの人里への出没は、怒りであり恐怖です。やむなく、命を奪う手段に出る・・・というのも、反対することができません。
富士吉田のクマ出没事件の時も、吉田さんのもとに、「何で殺さなかったのか?」という意見を寄せてくる方もいたそうです。

しかし、「人間がクマの生活環境を破壊したために、人里に降りて来ざるを得なかったクマを殺すのは、理不尽だ。かわいそう。」という意見もまた理解できます。

吉田さんは、立場上、真っ向から対立するこのような意見を考慮に入れながら行動しなければいけないというジレンマを抱えています。

その後、地元の森林組合の方と話をする機会がありましたが、その時、吉田さんたちの活動について

「宙ぶらりんだな・・。」

と、言っていました。

人間と野生動物の共存に横たわる、理想と現実。
どの考えが「正論」なのか、決めかねます。

しかし、僕は吉田さんたちのやり方や信念を尊重したいと思っています。
まず、クマやサルなどが人里に出没しない環境づくりをし、それでもおりてくる時には、モンキードッグを使って追い払ったり、クマが嫌いな唐辛子スプレーなどをかがせて山に帰すというやり方は、素晴らしい方法だと思います。

吉田さんや藤園さんたちの活動に敬意を表しています。
これからも応援していきます!
ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本一周 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2011/05/28

富士山麓の古民家 ~静岡県の武田金山~

富士山の西に広がる朝霧高原は、戦前は陸軍の演習地、戦後は酪農地として、開拓されたところです。
富士山を横目に、視界いっぱいに広がる高原の間を、心地良い風とともに、颯爽と駆け抜けていきます。

朝霧高原

山梨県から静岡県に入ったすぐの根原地区で、元区長の方に、昔から続く集落を尋ねると、

「ここ根原と、猪の頭、人穴、、、あっ、そういえば、麓(ふもと)もあったな。」

と教えていただきました。

麓?
早速、地図で調べると、朝霧高原の西のはずれに「麓」と載っています。小さな集落のようです。
コースから外れてしまいますが、当然のように(?)麓に行くことにしました。

大きな牧場やキャンプ場の間を抜けて、麓地区へ。
山梨県との県境になる毛無山の手前に麓地区はありました。
旅の途中から、人はまず、山の近くに集落を作るんじゃないかと思うようになりました。忍野村でも、富士吉田市でも、最も古い集落は山沿いでした。つい最近まで、食料や燃料、肥料などは、山(森林)から手に入れていたので、山に近いところに住む方が便利だったのではないでしょうか。

茅葺きの門がある、ものすごく古そうな家があったので、早速、訪ねることに。

朝霧高原

声を掛け中を覗くと、おじいさんと、お母さんと女の子がいました。
あいさつをし、まずお雑煮のことを聞いた後、興味しんしん、この家のことを尋ねました。

おじいさんが答えてくれます。
この家が建てられたのは、天文20年(1551)。今から460年前、戦国時代の古民家です。そのことを裏付ける資料も残っているそうです。

竹川家のチョウナ跡柱には、カンナ以前の大工道具であるチョウナで削った跡が残っています。
富士吉田市のカムナビ邸といい、広く知られていないだけで、江戸時代より前の古民家は、日本中に、案外、残っているのかもしれません。

僕はものすごく感動して、

「すごい貴重な古民家ですよね。国の重要文化財とかに登録してもらえるんじゃないですか?」

と、興奮気味に口走りました。

しかし、おじいさんいわく、このおじいさんのお父さん(おじいさん?)が、戦後、文化財指定を免れるために、なんと、母屋の茅葺き屋根を、石瓦にしてしまった・・・ということです。

「えっ・・・。」

僕は思わず絶句。古民家好きの僕には、訳がわかりません・・。

おじいさんは話します。
実際にそこで生活している人にとって、必ずしも文化財指定はいいものではないそうです。
文化財に指定されると、ガラス1枚を交換するのにも申請が必要になるなど、家に手を加えることが簡単にできなくなります。
この家の重要性はおじいさんも十分認識していますが、文化財としての家と生活空間としての家が両立しない苦悩を語っていました。
なるほど・・・。現在、文化財として登録されている古民家の多くが、公共のものになっている意味がよくわかりました。
古いものを守っていくことは、とても難しいことです。

話は、麓地区の歴史へと広がっていきます。

麓地区の西側にそびえる毛無山には、金鉱があります。この金山は、麓金山(富士金山)と呼ばれ、武田金山のひとつでした。
ここ竹川家は、戦国時代から金山を管理してきた名家です。
毛無山を挟んで反対側にあり、同じ鉱脈を採掘していた湯之奥金山と揉めたことを示す文書など、金山に関わる貴重な資料が残っているそうです。

現在、この麓地区には9軒しか家がないとおっしゃっていました。
どんどん人がいなくなり、集落は消滅の危機です。
竹川家の近くに、旧井の頭小学校・麓分校の跡地に建設した「麓 山の家」という施設があります。
この施設は、「中心となる施設がない集落は、どんどん衰退してしまう。」という信念のもと、竹川さんたちが市に働きかけて、建設にこぎつけたそうです。
残念ながら冬季(12月~3月)は休所していましたが、機会があったら行ってみたいと思っています。

ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。

2011/05/25

富士山麓のお雑煮 第5回 ~遙かなる麻袋~

東京に帰ってきてから、3ヶ月半が経ちました。
生来の無精のため、出発が延びていますが、ようやく、準備が整いつつあります。
このブログも、今年はじめに更新してから放置状態でしたが、再出発前に年末年始にあったことを書いていきたいと思います。

去年の12月18日~21日の間、富士五湖周辺から南へ進み、静岡県富士宮市に入りました。
静岡県に入ると、それまでの鬱蒼とした樹海から、一面にススキが広がる草原へと、一気に視界が広がります。

静岡県に入ったあたりで富士山を望む

静岡県に入った最初の集落の根原で、早速、お雑煮について尋ねました。
お雑煮は、しょうゆ味で、里芋が主菜だとおっしゃる方が多くいます。元旦に「うどん」を食べる風習は、こちらにはないようです。同じ富士山麓でも、富士五湖周辺とは違いました。

猪の頭地域で話を聞いていたとき、1人のおじいさんが興味深い話を聞かせてくれました。

その方の現在のお雑煮は「しょうゆ味」ですが、以前は「みそ味」だったそうです。
かつて、しょうゆは高級品でした。
みそは比較的簡単に、家で作れますが、しょうゆを作るためには、定期的に手を加えたり、もろみを絞るための麻袋が必要だったりと、家で作るのは楽ではありません。
このしょうゆを作るための麻袋が当時とても高価で、おじいさんの家でも、周りの家でも、買うことができなかったそうです。今は家が立ち並んでいる猪の頭も、そのころは、16~20軒ぐらいだったそうです。

他にも、戦争のころ、根原に茅葺き用のススキを刈りに行き、馬の背に乗せて帰ってきた話や、ひえと、あわ、きびを食べて暮らしていた話など、遠くを見るような目で、朴訥に語っていました。
また、ここは、かつて、水が豊富なことを表す「井の頭」だったそうですが、税金を節約するために「猪の頭」と名前を変えた・・・という話(風説?)を披露していました。

名字に注意せよ!


雑煮を聞いて歩いていると、同じ名字の人が多いことに気がつきます。
小山町では「岩田」、御殿場では「勝又(勝俣、勝間田)」、山中湖では「高村」「天野」、そして、ここ猪の頭では「佐野」や「植村」などなど。
まだ人の移動が少なかった戦争のころまでは、日本の各地で、同じ姓の氏族が、固まって暮らしていました。現在でも、まだその傾向は残っています。
このような、その場所に固有の姓の方は、先祖代々、その場所に暮らしていた可能性が高いと考えられます。
そういうわけで、ついつい表札に目がいって仕方ありません(汗)。

坂を下りながら、南下していきます。

白糸の滝

180度にわたって、何筋もの白糸が垂れ落ちる「白糸の滝」や、迫力ある轟音を響かせている「音止めの滝」を満喫。その夜は「白糸の滝」近くのおばあさん宅の空きスペースに、テントを張らせていただきました。

次の日、白糸の滝の近くで声をかけた方に、

「このあたりで、井出という名字をけっこう見かけるんですけど、ここの地名の上井出と関係あるんですか?」

と気になっていた疑問をぶつけました。

その人は、

「おっ!いい質問だ、、んー、いいねっ!」

と、地名の由来について、教えてくれました。

ここから南に、源頼朝が富士の巻狩りの時に本陣(宿所)とした家である「井出館」があり、井出館の周りは「狩宿」に、その家の南側は「出口」に、その北側は「中井出」に、中井出の北側は「上井出」、そのまた北側は「井の頭(猪の頭)」という地名になったということです。

ってことは、その井出家。この辺りのキーとなる家に違いない。
きっとお雑煮もこの辺りを代表するものだろうと、早速、行ってみることにしました。

井出の館坂を下って、井出館に向かいます。

この館の前にある、日本五大桜のひとつの「狩宿の下馬桜」の前に自転車を停め、井出館に向かいます。立派な茅葺きの長屋に囲まれ、高麗門が威風堂々とそびえる家です。

早速、中に入って声をかけると、おばあさんが出てきました。
お雑煮のことを尋ねます。
大根と里芋を下にしいて、その上にお餅を焼かずにのせるしょうゆ味のお雑煮。昔ながらのお雑煮です。
3が日が過ぎた4日からは、みそ味の「お汁煮」を食べるそうです。お汁煮という呼称は、初めて聞きました。

ここ井出館は、鎌倉時代からずっと続く名家で、江戸時代は、この辺り一帯の名主だったそうです。
たくさんの小作人の名前が書かれた「宗門人別帳」が残っている話など、ぐんぐんおばあさんの話に引き込まれます。

そして話は、戦前戦後のころに。
そのころ、この家ではみそもしょうゆも手作りしていました。塩以外の、小麦や大豆も自家製。しょうゆ作りは、もろみが上がってこないように、毎日手を入れてかき混ぜないといけないので大変だったそうです。

僕は何気なく麻袋のことを尋ねました。

「12人の大家族に使用人もいたから、麻のこし袋は、50枚はあったわよ。」

おばあさんは言いました。

えっ、50袋!!

僕は、我を忘れ、しばし呆然・・・。
顔をしかめながら舌打ちするように話していた、猪の頭のおじいさんの姿が頭の中をぐるぐる回ります。

おじいさんが1袋も買えなかった麻袋が、ここでは50袋・・・。

現在は、格差社会になってきたと言われていますが、昔も変わらず、格差社会。

お雑煮の話を聞いていると、現在、普通に食べられる食事のありがたさを本当に実感するようになります。自分の価値観が、ぐらんぐらんと揺れているのを感じました。

おばあさんとほっこり語り合った後、僕は、竜宮城からでてきたような心持ちで、井出の館を後にしました。



より大きな地図で お雑煮マップ 2(関東南部・富士山麓・甲府他) を表示

ランキングに参加しています。
にほんブログ村 日本の伝統・文化 人気ランキング
↑クリックしていただけるとうれしいです。
いつも、温かい励まし、ありがとうございます。