2010/12/02

富士山麓のお雑煮 第2回 ~じゃが芋 in お雑煮~

静岡県の小山町と御殿場では、みそ味の方も、しょうゆ味の方も、神奈川県のお雑煮と同じく、「里芋と大根」がお雑煮の具の中心にありました。

籠坂峠を越えて山梨県に入ると、具が変わります。

山梨県では、大根、人参、ゴボウ、昆布、豆腐などの多くの具が入る、ケンチン汁(ケンチャン汁)を大晦日に食べ、元旦は、それにお餅を入れてお雑煮にする方がいます。

山中湖村と富士吉田市の間にある忍野村では、僕が聞いたほとんどの方が、大晦日にケンチン汁(忍野村では、「デイゴゼイ」と呼ぶ。)を作って、元旦はお雑煮にしていました。
※今は、デイゴゼイとは別に、元旦には、しょうゆ味で、ほうれん草などの青菜を入れたお雑煮を作る家もあります。

山中湖村でお雑煮のことを聞いていたとき、多くの方からお雑煮に入れると聞いて、驚く具材がありました。

それは、「じゃが芋」です。

今までのお雑煮調査を通して、「イモ」と言えば「里芋」を指します。
泥芋、土芋、小芋(子芋)、ただいも・・・。
今まで、里芋のいろいろな呼び方を聞きました。
縄文時代に日本に伝わったとされる里芋は、人々の生活に根付いた日本の食生活に欠かせない食材です。

今まで聞いた中にも、当然、お雑煮に「じゃが芋」を入れている方はいました。
しかし、それは、地域独特ではなく、その家庭独特というものだったり、ジャガイモ、玉ネギなどを入れた、コンソメスープのような、洋風雑煮という感じのものでした。

しかし、ここ富士五湖周辺で聞くお雑煮は、大根、人参、ゴボウ、豆腐、ほうれん草など、昔から受け継がれてきた和の食材を使ったお雑煮の中に、里芋ではなく、じゃが芋が入っているのです。
多くの方がじゃが芋を挙げるので、どうも個人的なお雑煮とは違うようです。

地元の方にその疑問をぶつけると、

「この辺りは寒くて里芋がとれないから、畑でじゃが芋を作っている。」

とおっしゃっていました。

※正確に言えば、とれることはとれるが、十分な量を収穫することはできないということみたいです。

いつから、じゃが芋を作っていたのだろうか?
江戸時代からお雑煮にじゃが芋を入れていたのだろうか?

と疑問に思ったので、ちょっと調べてみました。

じゃが芋は、16世紀末、日本に伝えられました。
当初は、普及しませんでしたが、寒冷な気候にも耐え、痩せた土地でも育つため、天明の大飢饉の時、当時、甲州代官だった中井清太夫が、じゃが芋栽培を導入し、特に、寒冷な地域である富士五湖周辺の普及に尽力したということです。
そのため、山梨県では、じゃが芋のことを「せいだいも」などと呼び、江戸時代後期には、じゃが芋生産地として甲斐国の名があがり、関東一帯ではじゃが芋のことを「甲州芋」と、呼んでいたそうです。

お雑煮は、元々、神様にお供えしたものを人間が分けていただく重要な儀式の1つだったと言われています。僕も、多くの方から、「お雑煮を、まず家の神様にお供えする。」という話を伺ってきました。

神様にお供えするものですから、自分たちにとって大切なものでなければいけません。そう考えれば、自分たちを飢饉から救ってくれたじゃが芋をお雑煮に入れることは、至極当然のような気がします。

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4 件のコメント:

狛 さんのコメント...

読後に感じた事は、著者様が今回の経験から来年のお正月、神様にお供えするお雑煮を作るとしたら具材にどんなものを使うのだろうという事でした。
まさか食パン・・・!?

Masato.M さんのコメント...

> 狛 さん

食パンは主食なので、お雑煮に関して言えば「餅」に該当します。

お雑煮の主役である「餅」は日常の食べ物ではありませんでした。それどころか、当時の一般の人は、米自体、ほとんど食べていません。

そうなると、食パンを神様にお供えするのは、恐れ多いことです・・・。
ほとんど食べることができないけど、腹いっぱい食べたい、ふんわりした「米粉パン」なら大丈夫かなぁ。

ここでちょっとクエスチョン。

山梨県の、特に山がちな土地に住む人たちは、米をとることができず、収穫していたのは、麦でした。主食が麦なのに、米を凝縮した餅を神聖視するのは、どうなんだろうか??

その答えは・・・。

狛 さんのコメント...

米が採れない故に「晴れの日」にしか食べられない貴重な食べ物として認識されていた。
なので、米で出来た餅が神聖視されていたのでは?

Masato.M さんのコメント...

> 狛 さん

僕の意図していた答えではありませんが、正解ではあります。当然、その側面があるからこそ、元旦からお餅をお供えして食べていたのだと思います。


ただ、その答えは、米が収穫できるところにこそ、該当します。

米がとれる地域では、米を作ってはいましたが、米は年貢などでとられ、自分たちの口に入る量はわずかでした。
普段は、あわやひえなどの雑穀を食べ、米は「ハレの日」の貴重な食べ物でした。
その米を凝縮した餅は特に神聖視され、お正月の特別な食べ物になりました。

しかし、麦を収穫していたところでは、、、

その答えは、近々、ブログに書きます。

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